こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

自己分析をしてみた

28才にもなったというのに、月20万にも満たない給料で仕事をしてる。

いま立ち止まったら終わりのような気がしてるから、お金のこととか、先のこととか、あまり考えないようにしてる。

 

だんだんと、年齢を重ねることに抵抗を感じるようになってきた。

年齢が上がれば上がるほど、周囲の目が厳しくなっていく。

中身がこのまま、40才になってしまったら。

そんなことを考えるととても怖い。

 

特技について

自分の持っているものがまったく武器にならない。

わたしがかろうじて持っている脆い刀と小さな盾で勝負するのが死ぬほど怖い。

 

容姿普通。

偏差値普通。

運動神経普通。

芸術的才能普通。

 

要は、なんでもやらせたらそつなくこなすけど、飛び抜けてるものが何もない器用貧乏。

どこに行っても、うもれる。

 

性格について

ぶっ飛んでる、自由奔放、明るい

 

私のことをよく知らない人は、私に対してそういう印象を持つらしい。

だけど、他人に割りあてられたその自分の印象を、その通りまじめに遂行することができない。

 

一緒に過ごす時間に比例して、暗くて陰気な私が出てくる。

そのギャップが結構辛い。

 

自己分析

初対面の人と話す事が得意なはずだったけど、その対象は異性に限られていて、さらには性的関係ありきじゃないと難しいのかもしれない。

でもそんなのは、わたしが30歳超えたら機能しないし、すでにその作業があほらしいとも思ってる。

 

だけど「初対面の人と飲む」活動をやってるときは度胸もあったし、誰に対しても物怖じしないで対峙することができた。

 

「初対面の人と飲む」活動をやめて3ヶ月経っただけなのに、仕事で10人の同僚を前に2分間喋っただけで頭が真っ白になった。得意なはずだったスピード感ある面白い返しも出来ず、だらしなくおどおどしてしまう。

 

「あー、やっぱり本当の自分はこれなんだな」って絶望的な気持ちになる。

 

結局、人見知りで、話すのが苦手で、恥ずかしがり屋なのが本当の私

明るくて、自由で、何にも物怖じしないわたしは、わたしが必死につくりあげて頑張って維持してきた虚像だったんだ。

 

周りの人はわたしの虚像を愛して、面白がって、関わってくれてた。

だから、素の自分に戻ったいまのわたしに、価値はないのかもしれない。

私自身、本当のわたしにまったく価値を見出せない。

 

わたしはひとりしかいないはずなのに、何人もの人間が中にいる感覚を持ってずっと生きてきた。

可愛らしかったり、憎たらしかったり、天使のように慈悲に溢れていたり、殺人鬼のように凶暴だったり、女性っぽかったり、男性っぽかったり。

 

本当の自分はどれなんだろうとか、本当の自分なんて探す必要ないとか、いろんなことを考えてきたけど、ずっと正解がわからなくて、いまだに悩んでいる。

 

こうやって何年も迷ってることにいつか意味を見出せるのかな。

自分を、ありのまま受け入れられる日が来るのかな。

遠い未来まで、不安で満ちていて不安。

過去との関わり方

過去の小さな失敗の数々は、決して脳内から消えることはない。

ぐるぐるぐるぐる頭の中をまわり続けて、わたしを支配してくる。

 

私に向けられる軽蔑の表情、

相手の言葉や行動から感じる冷めた温度感と攻撃性、

お酒を飲んで気分が高揚した時の自分の最低な発言、

ほめ言葉にうかつに喜んでしまった後悔、

返し方を間違えた会話、

相手のつまらなさそうな反応、

私には絶対に向けられない愛情いっぱいの視線。

 

思い出すものすべてが私を責める。

お前は不要なものだと突き落とす。

 

どんなに必死で隠れても、怒りと悲しみと恥ずかしさは、わたしのバリアを突き抜けてとめどなく私の中に入ってくる。

自分の身体が負の感情に支配される。

 

過去にとらわれて生きている

わたしは過去にとらわれている。

今、ここだけを生きることができていない。

 

常にすべては変化しているはずなのに、わたしは過去のどこかからいつまでも動けずにいる。

私の過去は恥ずかしくて、とても嫌なもの。

それなのにわたしは、自分の本体を過去のどこかに意図的に縛りつけている。

 

過去を捨てたら私は消えてしまうと思っているのだ。

過去はもう終わったことなのに、どうしてすがりついてしまうんだろう。

わたしは何に怯えているんだろう。

 

過去を捨ててはいけない

だけどたぶん、過去を捨ててはいけないと思っているから捨てようとしないんだ。

わたしは今、辛くて恥ずかしい過去だけど捨ててはいけないと思っている。

過去に縛られたくないからこそ、捨てちゃいけないと思っている。

 

それは、今を生きられるようになるために過去が必要だから

 

わたしは過去をきれいに整理して、「今」から切り離さないといけない

そうやって、混沌の中から抜け出してちゃんと今を生きないといけないんだ。

 

過去は善でも悪でもなく、「過去」としてあるべき場所に置いていきたい。

 

そしたらきっと「今」を生きられる。

 

過去から解放されて自由になる

毎年、年明けの目標に「自由奔放に生きる」を掲げてきた。

そしたらいつのまにか「あなたは自由奔放に生きてるね」って周りに評価してもらえるようになってた。

 

わたしは自分の印象を操作するのが上手だと思う。

わたしがなりたい通りの印象のわたしになれているのは、印象操作が成功した結果であって、本当のわたしは全然違う。

 

いつも過去の失敗に縛られていて、周りの視線を避けたり受け取ったりする作業に必死。

まったく「自由奔放」とは真逆のところにいる。

 

本当の自由というのは、いまここに、主体的に存在していることだと思う。

他人の言動に左右されたり、過去に引きずられたりしない

 

自分を評価する基準は他人や社会が決めたものじゃない。

自由に生きることで自分は満たされるし、周りの人も心地よくなる。

 

人の意見とか、一般論とか、資本主義とかどうでもよくなって、他人に左右されない自分の価値観をちゃんと持って、幸せに生きられますように。

 

弟への嫉妬

可愛い弟

私には3つ下の弟がいる。

 

小さい頃からくっきり二重で可愛く、いつもニコニコしていて、中学に入るくらいまではよく女の子と間違えられていた。

中学に入る頃からは、ジャニーズに入ればいいのに、とか周りによく言われていて、女の子がプレゼントを持って家を訪ねて来たり、人気があったみたい。

私は小学校高学年頃まで、そんな弟を自慢に思っていた。忘れ物を届けに弟のクラスへ行く時、誇らしい気分になっていたのを思い出す。

 

小さい頃、私の遊び相手は弟だけだった。

母はいわゆる「ママ友」をつくらず、外の公園に連れて行ってもらうこともなかった。なので、私の遊びはいつも自宅の中と自宅の庭で完結しており、必然的に遊び相手は弟だけだった。

 

弟が、とても可愛い顔だという事を幼いながらに理解していた。

そして、女である自分より、男の弟の方が可愛いという事も。

 

でも、7歳そこらの幼い私はまだ、自分を誰かと比較したり、他人に嫉妬したりという事を知らなかった。

可愛い顔をしている弟を人形のように可愛がり、フリフリのレースがついた女の子の服やスカートを着せ、リボンのついたゴムで髪を二つ結びにして遊んでいた。

でもなぜか、自分の見た目には頓着しなかった。弟には徹底して可愛い格好をさせるくせに、私はいつもトレーナーに長ズボンという、男みたいな格好をしていた。

私の世界にある「可愛い」の全ては弟だった。

 

私は「可愛くなりたくない」

当時から自分の服はどうでも良かったし、見た目なんて気にした事もなかった。

ただ、たったひとつ徹底していたこだわりがある。

それは、自分を「可愛い」から徹底的に遠ざけること。

母は、幼児趣味のようなフリフリの服を好んで買いたがったけれど、私がずっと言っていたのは

「何の飾りもない服がほしい」

 

当時、家庭が割と裕福だったので、1着1万円を超えるような「地味な服」をデパートで買ってもらっていたけれど、私はそれがとても嫌だった。

 

まず、服を買いに行く事自体が嫌いだった。

可愛い服ばかり勧められる不快感。

試着をするたびに知らない大人にジロジロ見られる不快感。

知らない大人と喋ることなんて出来ないのに、店員と一緒になっていちいち私に意見を求めてくる母親。

 

そして、わざわざ週末にデパートまで行って高い服を買う嫌悪感。

私は服にこだわりがないのに、わざわざ高い服を買う意味がわからない。

みんなみたいにしまむらで買えばいい。

でも、お母さんにそんなこと言ったら嫌な顔される。

だから言えない。

なるべく目立たない、特徴のない服を選ぼう。

いつも選ぶ基準はそれだけ。

 

自分の顔をはじめて見た

中学に入り、人並みに好きな人が出来てから、私ははじめて自分の容姿を気にするようになった。

 

はじめてまじまじと見る自分の顔。

奥二重で、目が離れてて、顔が丸い。

そして、歯並びがものすごく悪い。二本飛び出た大きい前歯、口を閉じても形がわかるくらいの八重歯。

はじめて、自分の顔が嫌いだと思った。

弟みたいに可愛い顔に生まれれば良かったのに。

何度も何度も、そう思った。

 

人生最大のコンプレックス

そんな中、弟が歯列矯正を始めた。

でも、弟の歯並びはそんなに悪くない。

なんで?と母を問い詰めた。

なんで、明らかに歯並びの悪い私には歯列矯正をしてくれず、元々歯並びの綺麗な弟にはするの?

 

母は、今のうちだと早く綺麗になるんだって。〇〇(私)の頃は歯医者さんに矯正勧められなかったんだよ。〇〇(私)の歯は大きくて伸び伸びしてる感じがするし、八重歯も可愛いよ。

そう言った。

 

その時は、私の場合は歯並びが悪すぎて矯正が難しいのかな、なんて思って納得してたかもしれない。

 

でも、少し経って、弟が何十万かかった矯正をやめた。

理由は、「気になるから。」

母もそれを許した。

 

私は、それが今でも許せない。

私がずっと悩んできた歯並び。

一時期はカメラを向けられると体が硬直するくらい気にしていた歯並び。

狂ったように、出ている歯を指で押し続け引っ込めようとした歯並び。

自分の部屋にこもって、鏡の前で歯が目立たない笑い方を必死に練習した歯並び。

 

私が正社員になりたい、お金が欲しいと思うのも、矯正がしたいから。

お金のない時期にも矯正をしたいと言い続け、今それどころじゃないだろ、と旦那に言われ何度も喧嘩した。

 

そのくらい私の人生最大のコンプレックスである歯並び。

そんな歯列矯正を、「気になる」という理由だけで弟はやめた。

 

登校拒否、そしてニート生活

弟は中学の途中から学校に行かなくなった。学校に行かなくなってからは、ずっと自分の部屋にこもっていた。夕方くらいまで寝ていて、夕飯の時だけ部屋から出てくる。夜中はまた部屋にこもって何かしていた。完全に昼夜逆転の生活。

 

当時は、私の家庭内暴力がひどかった。

無抵抗の両親を怒鳴りつけて、家の壁を壊し、勢いでガラスに腕を突っ込んで大怪我したり、家にはほとんど帰らなかった。

私の怒りは引きこもりの弟にも向いて、顔を合わせれば理不尽に殴りかかっていた。弟も、両親と同じく無抵抗だった。

あの頃、私に反抗する人間はひとりもいなかった。(と思っていた。)

 

学校の先生だって同級生だって私のことを無視するし、彼氏は私の言いなり。友達も、私を「そういう人」として扱ってくれる。警察だって優しく諭してくれる。

私はそんな人達の上に立っている錯覚に陥っていた。

 

そんな私だったけど、なんとか気持ちを立て直して、家を出たい一心で大学を受験。18歳から東京で一人暮らしをはじめた。

その頃弟は、中学の担任の先生がなんとかしてくれて高校に入学したもののすぐに中退。

やっぱりな、とは思ったけど。

 

弟はそのあと通信制高校に通い高卒資格を取ったけれど、そのあとの大学受験で第一志望の大学に落ちて、進学を諦めた。

予備校に通ってもう一度受験したけど、やっぱりだめだった。

唯一受かった福祉系の大学は「行きたくない」といって行かなかった。

それからまた引きこもりの生活をしている。

 

東京で弟と暮らす

数ヶ月前、私が帰省し、たまたま話す機会があったときに「やりたいことがあるから東京に行きたい」という話をされた。

私はずっと弟に暴力を振るっていたから、そのせいで彼はずっと引きこもってしまってるのかもしれないという負い目を感じていた。

だから、自分でやりたいことを見つけて外に出たいと思ってくれたことが嬉しくて、旦那と相談して、居候という形で数ヶ月うちで暮らしていいよ、ということにした。

仕事も、旦那が会社の社長に取り合ってくれて、旦那の会社でアルバイトとして働かせてもらうことになった。

 

だけど、東京に来て3ヶ月、弟は朝から夕方までずっと家で寝ている。料理を作ったり、洗濯したりもしない。仕事は、別の現場でもいいかと打診されたら断った。

理由は「危ないから」

 

弟にあって、私にないものって何だろう?

私のやってきたことひとつひとつは間違ってたかもしれないけど、私はずっと何か正解を、本当の自分を探して、必死で生きてきた。

お金がない時期もあったけど、昼夜ダブルワークして、奨学金をもらって大学に通ったし、親からの仕送りは拒否した。反抗期に酷いことをしてきたからその反省として、親からの援助はもらわないで生きていくと決めていた。

 

20歳で結婚して、結婚式も挙げず、結婚指輪もなく、子供が生まれても、借金して、夜勤で働き、ようやくここまで来てるけど、家庭を持ってからも自分達の力で生きていくと決めて、ずっと必死だった。

 

必死すぎて、格好なんて気にしてる暇なかった。仕事なんて選んでられなかった。今月どういきていけばいいんだろうと毎日思っていた。

とにかくずっと仕事をしていた。ずっと子供と一緒にいた。毎日生きることに必死だった。

 


「甘えてる」

私が弟に抱いてる気持ちはずっと一貫している。最近になって、中学に行かなくなった理由を聞くと「部活の朝練が嫌だったから」らしい。

 

矯正もそう。中学も、大学受験も仕事も夢も全部そう。
嫌だからやめればいい。
やりたくなければやらなくていい。

やめても「誰かが助けてくれる」

弟は、ずっとそうやって周りに甘えて生きてる。

 

自分は誰にも頼らなかった。

頼りたかったけど頼れなかった。

誰も助けてくれなかった。

誰も私のことを見てくれなかった。

なんでも自分で決めなければいけなかったし、相談することも出来なかった。

ずっと、ずっとひとりだった。

 

弟が羨ましい。

努力しなくても周りに助けてもらえる。

ずっとぬるま湯に浸かっていればよくて、そこから出るのを急ぐ必要もない。

苦しいことはしなくてよくて、嫌なことを我慢しなくても誰かが生かしてくれる。

頑張らなくても、誰かが見てくれてる。誰かが手を差し伸べてくれる。

 

私が「私を見て!」と身体全体で死にものぐるいで叫んでも、誰も見てくれなかった。

でも、弟は自分から何の発信もせず、目をつぶって楽な道を選んで待っているだけで誰かが見てくれる。手を握ってくれる。

 

 なんで?私の方が努力しているのに。

2017年 影響を受けた本

本を読むのが好きです。

 

溢れ出そしそうな感情を文章にするのはとても難しいことです。このブログには、自分の気持ちを赤裸々に、正直に書いているつもりだけど、私の脳みそと語彙力では表現しきれない感情が沢山あります。

本を読むと、ぐちゃぐちゃに絡まっている感情がほぐされてピッとまっすぐになったり、破壊的な心の叫びを見事な文章で完璧に表現してくれていたり、ズキズキとした痛みや傷が少しだけ癒えたり。私にとって読書は欠かせないものです。

 

⬇︎本を読んで泣くと、気持ちが浄化されます。

大事なのは、泣く事 - ボーターじゃない

 

2017年に読んだ本の中で特に好きなものを5冊ご紹介します。

 

きりこについて(西加奈子

大好きな西加奈子さんの本。

このお話に出てくる「ちせちゃん」に自分を投影して読みました。外から見える私はきっと「ちせちゃん」みたいなんだと思う。性に奔放で、気が強い。

だけど本当は気が弱くて自信がなくて、深く深く自分の世界に入り込むような「きりこ」の部分もある。

いろんな挫折や葛藤を経て、きりこやちせちゃんが、私は私でいいんだと気付いていく過程に勇気をもらい、あなたはあなただから素晴らしいんだよ、と抱擁されている気持ちになって何度読んでも涙が出ました。

全部の登場人物に幸せになってもらいたいと願った一冊。

 

 うつくしい人(西加奈子

うつくしい人 (幻冬舎文庫)

うつくしい人 (幻冬舎文庫)

 

これも西加奈子さん。

今年に限らず何度も読んでいるけど。

自分の事に置き換えてばかりで申し訳ないのですが、この主人公も本当に自分と似ている。自意識過剰で気が強い。嫌われるタイプなんだろうなあ、わかるなあ、自分もそうなんだなあ、って。

主人公の姉は何歳になっても自分の世界にどっぷりと浸かり、周りの目を気にせずに生きている。一方で主人公の百合は、周りに合わせて常に妥当なポジションに収まるよう生きてきた。

こんな兄弟関係も自分と重なりました。

姉である私はいつも周りの目を気にしながら、自分の立ち位置を維持するために必死で生きてきて、それでもうまくいかずに悩んでいる。なのに実弟は、実家でのんびりニート生活をしていて、将来を悲観するでもなく悠々と生きている。

その悔しさと羨ましさを見事に表現してくれていて、涙が止まりませんでした。

 

自分を見失って、本当の自分がどこにもいない感覚はすごくよくわかります。そして、周りに変な目で見られても自分の好きなように生きている人への羨望の気持ちも。

徹底的に最適なポジションに収まっていくことも、徹底的に自分の心に従ってぶっ飛んで生きることも、どっちにも振り切れずに自分を見失ってしまう。

 

だけど、「そんな時もあるじゃん!あなたはあなただから美しいのよ!」って、圧倒的な説得力で私を支えてくれる大切な一冊です。

 

 こちらあみ子(今村夏子)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

人に教えてもらって読みました。

内容はすごく重いんだけど、みんなが一生懸命生きてる。自分のアイデンティティを保つこと、社会の中での役割を果たすこと、家庭の中での役割を果たすこと、他人と関わること、人に教えること、伝えること。この世界は全てが難しい。だけど、あみ子のずれていて間違ってるかもしれないけど、真っ直ぐな行動と発言に清々しさを感じる瞬間がありました。

昼休みに、誰もいないビルの隙間で泣きながら読みきりました。なにやってんだろ。

 

 

そして、2017年は興味の範囲が大きく広がった一年でした。

「自分の性格を変えたい。心の持ちようでは、自分の意識ではどうにもならない。どうしよう。」

紆余曲折の末にたどり着いたのが、脳科学でした。

心理的な世界は、変化させようとする範囲(人間の気持ち、考え方、物事の捉え方)に限界がないと感じます。それに比べ、脳は変化の幅が狭い。(脳の形や細胞の形が人によってそこまで大差がないという意味で。)

 

限られた範囲で、性格を変えるために自分が出来ることがある。

それなら学びやすいし実践しやすいのでは?

自分を変える道のりが長すぎて途方に暮れていた私に近道を提示してくれたのが脳科学の世界でした。

 

 脳科学は人格を変えられるか?(エレーヌフォックス)

脳科学は人格を変えられるか?

脳科学は人格を変えられるか?

 

 タイトル通り「人格を変える」可能性を秘めた脳の実験が多数収録されています。脳科学について何の知識もなかった私は、性格=遺伝80%+成育環境20%でつくられるものだと思っていました。そしてそれは努力で変えられるものではないと。

だけど、脳の可塑性は非常に高いこと。記憶の入れ替えができること。書かれている実験は研究室レベルのものが多い印象でしたが、人格って、努力次第で変えられるのかも、と勇気をもらいました。

そして、余裕が出来たら脳科学についてちゃんと学びたい、という学習意欲も湧いてきました。

 

 

あとは、境界性人格障害(ボーダーライン)についての本。

自分を何かの病気に当てはめることは本当に正なのかとずっと悩んできました。

心療内科でうつと診断されたり、ネットでADHDのチェックテストをすると見事に当てはまっていたりしましたが、いままではどれも素直に受け入れられなかった。

だけど、これだけは、すっと自分のことと思えました。良いのか悪いのかは未だにわからないけれど、本を読んで、境界性人格障害のことを知れば知るほど、自分の過去の感情が信じられない勢いで湧き出てきました。

恥ずかしくて悲しくて、誰にも知られたくなくて、秘密にしたくて、長年押さえつけてきた感情。だけど、その感情の中に本当の私がいました。

ずっと欲しかったもの。自分の本当の気持ち。

本を読みながら、湧き出てきた感情を書き出す作業はとても辛いです。

でも、大人になったいまの私が、私の中にいる傷ついた子供の私を助けてあげないといけない。そう思えたのも、境界性人格障害についての知識を学んだからでした。

カウンセリングに通うキッカケにもなったし、今後も何度も読み返すのだと思います。

 

 境界性パーソナリティ障害岡田尊司

境界性パーソナリティ障害 (幻冬舎新書)

境界性パーソナリティ障害 (幻冬舎新書)

 

 すごくわかりやすく、専門的なのに読みやすく、自分のことを整理する準備として読むのにベストだと思います。岡田先生自身が境界性パーソナリティ障害の人と初めて関わった衝撃と戸惑いからこの分野の研究を始めているそうで、愛情と深い理解を感じられる本でした。

「ボーダーラインは一刻も早く見捨てるべき」というメッセージが巷に広がる中、岡田先生は本の中で「ボーダーラインの人は人を惹きつける不思議な魅力を持っている」「乗り越えたらもっと魅力的な人になれる」そんなメッセージを書いてくださっていて、現在と未来の自分を認めてくれているように感じました。

 

 境界性人格障害(BPD)のすべて

境界性人格障害(BPD)のすべて

境界性人格障害(BPD)のすべて

  • 作者: ジェロルド・J.クライスマン,ハルストラウス,星野仁彦,Jerold Jay Kreisman,Hal Straus,白川貴子
  • 出版社/メーカー: ヴォイス
  • 発売日: 2004/06/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 15人 クリック: 105回
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 こちらは更に専門書に近い印象です。ただ、境界性パーソナリティ障害自体については、まだ曖昧な解釈となってしまう部分も多いようで、議論の余地あり、という書き方で現在の研究概要を述べている箇所も多くありました。

前述の岡田先生の本で核の部分を学び、オプションの情報をこちらで得るのが良いと思います。

事例紹介がとてもリアルなので、読んでいると急に自分の過去の記憶が思い出されたりすることが多々ありました。フラッシュバック的に一瞬辛い気持ちが呼び起こされますが、治療のためには必要な過程なのだと思います。

 

闘いの拠点

人生に生きづらさを感じるようになってもう10年近く経ちます。ひたすらに自分と向き合い、アイデンティティを確立させようと闘ってきた10年でした。

何度も死にたいと願い、何度も強くなると決意して生きてきました。

 

そんな中、今年は、このブログを自分のアイデンティティの拠点にできた気がします。

ブログを開設してから、はじめの2年くらいは、年に数回しか記事を書いていませんでした。自分の感情を外に出すことに強烈な抵抗があったからです。

 

でも、感情が大きく揺さぶられて、泣きながら気持ちを文字に書き起こしている時、一瞬、冷静に自分を客観視できる瞬間がありました。

それから、その作業を継続するようになり、一気に自分の過去の整理が出来てきました。

意識していたわけではないのですが、自然とこのブログが拠点になり、同じ作業を繰り返し続けてきたことに意味があったのだと思います。

目まぐるしく現れては消えていく感情たちをここに留めていくことで、自分は何者なのか、何を考え何を求めているのか、明確にできてきた気がします。

 

そして、いままでずっと言えずにいましたが、毎日読んでくれる方がいたことが、私にとって本当に心の支えとなりました。

自分のためだけにはじめたブログ。だから、本当に恥ずかしいことばかり書いていると思います。裸よりもさらに裸で、ただただ自分の核をさらけ出しているような記事ばかりだと思います。読んでいて嫌な気持ちにならないのかな、と心配になってしまいます。病んでいる人の気持ちをさらにおちこませてしまったらどうしようとか、私と違う考え方を持っている方が怒りを感じることがあったらどうしよう、とか。

 

だけど、毎日多くの方に見に来ていただけていて、お役に立てる記事でもないのに本当にありがたい限りです。

私はこのブログを拠点として自分を探し続けていますが、その過程を見てくださっている方がいると思うと、すごく嬉しいのです。(自分ではもう読み返したくない記事が山ほどありますが…)

ブログ自体の印象が良くないはずなので、自分からはあまり関わりを作れずにいますが、本当は人との関わりを渇望しているのだと思います。

心から感謝申し上げます。

ありがとうございます。

 

⬇︎Twitterやってます。お話できる方がいると嬉しいです。

@

 

Twitter勧めてくださったたまご豆腐@適応障害 (@tamagodofuu) on Twitterさん、ありがとうございます!

(アカウント出さない方がよければ、お手数ですが教えてください!)

 

2017年も、本当にありがとうございました。

境界性パーソナリティ障害を抱えながら仕事をすることについて考えた

人間は成長にともなって、様々な個性を獲得していきます。

前向き・几帳面・大ざっぱ・明るい・人懐っこい・おとなしい・真面目・・・

 

だれもが様々な性格をもっている中で、その一部分が極端に偏り、社会生活を送る上で自分も他人も苦しめてしまう人たちがいます。

こうした人たちのことを、精神医学の世界では「パーソナリティ・ディスオーダー(人格障害)」と呼びます。

 

その中でも、

  • 気分の波が激しい
  • 白黒極端な考え方をする
  • 強いイライラ感を抱えている
  • 感情が極めて不安定
  • 衝動的な行動をとる

といった特徴がある精神疾患が、境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害/ボーダー)です。

 

境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害/ボーダー)の人は、見捨てられ不安が異常に強く、見捨てられないよう、周囲にかまってもらえるよう、対人操作をしたり、依存や攻撃をしたりします。

 

アメリカのデータによると、一般人口の約2%、精神外来患者の11%、入院患者の19%が、境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害/ボーダー)であるといわれています。

 

www.koara2015.com

 

↑私は、境界性パーソナリティ障害の特性にピッタリあてはまっています。

今日は、境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害/ボーダー)を抱えながら仕事をすることについて考えてみました。

 

 

境界性パーソナリティ障害の人の魅力

境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害/ボーダー)の人は、たいてい、第一印象がとても良く、魅力的なオーラを放っている場合が多いといいます。

また、自然と「守ってあげたい」と保護本能をくすぐるものを感じさせることもあるそうです。

 

一緒に過ごしていると、繊細で思いやりのある優しい気遣いを目の当たりにしたり、サービス精神旺盛な一面から好印象を受けるかもしれません。

 

しかし、別の一面では、常識を逸したストレートな物言いや、図星をつく指摘をズバッと行います。

 

そのギャップが、会う人に新鮮さを与え、あっという間に人との距離が縮まることも少なくありません。

 

境界性パーソナリティ障害の人に向いている仕事の特徴

境界性パーソナリティ障害(境界性人格障害/ボーダー)の人は、

  • しっかりとした組織構造
  • 明確な職務内容
  • 支援態勢の整った職場

で、最大限の実力を発揮する場合が多いそうです。

 

また、知性や芸術的才能に秀でている人も多く、俳優や芸術家には、ボーダーの気質を持った人が多くいるといいます。

 

例えば、作家の太宰治は、生活が破綻し、友人・異性関係が不安定な裏で、多くの人に感銘を与える作品を数多く残しました。

最近だと、歌手の椎名林檎、Cocco、鬼束ちひろなども境界性人格障害の特性があるのではといわれています。

 

境界性パーソナリティ障害の人に向いている仕事

介護職

人間関係の構築が苦手といわれる「境界性人格障害」ですが、優しく、細やかな気配りができる人も多いといいます。

弱者である高齢者や障がい者の介護をすることで、自分が必要とされ、役に立っていると感じ、自分の存在価値を確認することができるのです。

 

在宅ワーク

人と接することが苦手でも、文章やイラスト、ものづくりなどの領域で才能を発揮する人もいます。

また、境界性人格障害の人は、気分が高揚したり落ち込んだりと、感情の波が非常に激しいという特徴があるので、自分のペースで働ける在宅ワークは適職だといえます。

 

テレフォンオペレーター

境界性人格障害の人の特徴でも挙げましたが、境界性人格障害の人は、組織構造がしっかりしていて、職務内容が明確な職場で能力を発揮しやすいといいます。 

テレフォンオペレーターの仕事は、きっちりとマニュアル化されており、業務も限定的なので、その条件にピッタリ当てはまっているといえます。

 

私の仕事について

わたしはいま編集の仕事をしています。

26歳の時、事務職として採用してもらった職場で、編集の部署に異動になりました。

 

好きだったことが仕事になっている

自分のアイデアや意見を発信すること、企画を立てること、デザインを考える編集の仕事はとても楽しいです。

地味な仕事ですが、文章を確認する校閲の作業も結構好きです。

 

本と図鑑と辞書を読んで過ごすことが多い子供時代でした。

そして、目に入った情報をノートにまとめたり、絵に描いたりする作業が大好きでした。

今だに本を読むとそれを図式化したくなるし、わかりやすく見せたい衝動に駆られます。

 

今の会社で、自ら編集の仕事を望んだわけではなかったのですが、上司からお話をいただき、数ヶ月前に部署異動。

 

今思えば、小さい頃にずっとやってきたことを仕事としてやっているような感じがします。

好きだったことを仕事としてできているのはとてもありがたいことです。

 

いまの職場でうまくいっている理由

私の場合、才能があるわけではないけれど、規模の大きな会社にいることで、上に書いた3つの条件

  • しっかりとした組織構造
  • 明確な職務内容
  • 支援態勢の整った職場

に当てはまっている環境で仕事ができています。

 

前職はパートで洋服の販売をしていましたが、どれだけやっても認められないし、自分のできる仕事内容がすごくせまい範囲で、年数を重ねたところで出来ることが広がらない。

そんな不満を抱えていて、「正当に評価してくれる職場」を条件に仕事探し、今の会社に入社するに至りました。

もうすぐ一年です。

 

人間関係は不安定

ただ、いつもおびえているのが、人間関係の不安定さです。

 

みんなに嫌われてるかもしれない。

私のやっていることを馬鹿にされてる気がする。

仕事内容を品定めされてる気がする。

 

そんな被害妄想が常にあるので、人前に立つと急に汗が出てきたり、手が震えたり、動悸が激しくなったりします。

何もない時でも、考え過ぎて同じ状態になることがあり、一度ぐるんぐるん回るようなめまいに襲われて、必死でトイレに駆け込み、うずくまってしのいだこともありました。

 

人とのやり取りの中でも、思った通りのものを作る方に意識が行きすぎて、周りの人の意見を排除しようとしてしまうことがあります。

 

また、すぐに人と比べて自分と他人に優劣をつけたり、仕事ができる人・できない人と、いつのまにか他人をラベリングしたり、人を利用しようという方向に意識が向きそうになることもあります。

 

完璧主義を求めすぎる

また、完璧主義の部分が顔を出し、自分が仕事で他人に勝てない悔しさに気持ちが負けそうになることもあります。

特に、「話す」分野においては顕著で、自信がないのが外に出てしまいます。

 

「いつもあんなに気が強いのに、なんで喋り出すと途端に自信がなくなっちゃうんだろうね?」

飲み会の席で上司に言われた一言を思い出すと、本性を見抜かれているようでパニックを起こしそうになります。

 

自分に自信があるようでやっぱりない。

自分に自信がないのは、完璧じゃないから。

 

完璧なんて求めても手に入らないのはわかっているけれど、どうしても完璧を求めてしまいます。

 

境界性人格障害を抱えながら仕事と育児をすることについて

人間関係への不安感や完璧を求めすぎてしまうという特性を抱えながら、仕事でも結果を出さないといけない。

それはとても大きなプレッシャーです。

 

完璧を求めてしまうことと同時に、失敗するのがとても怖いこと。

 

この2点はいつも私を苦しめます。

いつも仕事のことを考えすぎて、帰りの電車で不整脈が酷くなり、倒れそうになりながら帰る日々。

真冬なのに汗だくで最寄り駅に着きます。

 

人と話したくない。

ひとりで冷静になる時間がほしい。

そう思っても、時間までに子供二人を迎えにいかないといけません。

 

19時に家に着いてからは、22時に寝かせるため、ごはんやお風呂を急いで済ませないといけません。

 

もっと余裕があれば、少し気持ちが安定するのかもしれないと思うこともあります。

 

だけど、私は仕事で認められたい。

容姿に自信を持てる見込みがない私は、もう仕事しか希望が持てるものがないのです。

だから、絶対に結果を出したい。

辛くても、体がキツくても、これしかない。

そんなすがるような気持ちで仕事をしています。

 

もう少し、全部を中途半端にできたら。

そしてそんな自分を許せたら、もっと楽になるのだと思います。

 

でも、境界性人格障害の特性があるからこそ評価されていることもあると思うのです。

完璧主義の特性がなければ、仕事を評価されることもなかったと思うし、好きなことを仕事にできていなかったかもしれません。

 

自分の持っている特性の良いところをうまく活かして、うまくバランスを取りながら仕事も育児もやっていければと思っています。

見捨てられ不安の分析ー行政には頼れるけど、親と夫には頼れない理由ー

私はずっと、自分の殻を固く閉ざしてきました。

自分のことを人に話したり、誰かに助けてもらったりすることはまったくありませんでした。

だけど、少しだけ、周りに頼れるようになってきた気がします。

 

子供を守るために行政に助けてもらう

子供達を守ることが出来るなら、行政に助けてもらおうという気持ちが湧いてきました。

 

私はひとりでいたら、この子たちを虐待するかもしれない。

記憶が飛んでる間に殺してしまうかもしれない。

 

そんな不安を感じたからです。

 

私はずっと、自分の体裁を守ろうとしてきました。

まともで正常で、素敵な母親に見られることを最重要視してきました。

 

だけど、そのプライドを捨てました。

私がどんなに危険人物認定されてもいい。

子供たちの命を、母である私から守らなければ。

 

自分のかわいそうな部分を知る

そう思えるようになったのは、自分のかわいそうな面に気付いたからかもしれません。

 

親からの愛情を理解できないまま育ち、絶対になくならない帰る場所はなく、自分が必要な人間だと思えず、ずっと誰かに寄生していないとフワフワと消えてしまいそうになる。

私はそんなかわいそうな人間でした。

 

そんな私が、見栄と虚勢を張り、無駄なプライドを掲げ続けることで、自分をもっと苦しめて本当の孤独に近づけてしまっていることがわかりました。

 

私が本当にほしいのは、永遠に続く愛情。

絶対になくならない安心できる場所。

自分を必要としてくれる世界。

誰でもない自分への自信。

 

いつも不安に駆られていて、いつも心の拠り所がありませんでした。

 

夫と親に頼れない理由

行政には頼れるようになり、通っている行政のカウンセリングでも、ちゃんと自分のことを話せました。

 

だけど、夫と親には本音が言えません。

「私を抱きしめて」「私のことを見て」とわがままが言えません。

 

私がわがままを言ったら、いつかみんな離れていってしまう。

私が泣いたら、私が怒ったら、私は捨てられてしまう。

ちゃんとできない私はいらないと言われてしまう。

そうしたら、私はひとりぼっちになってしまう。

 

「離れないよ」「ずっとそばにいるよ」

心からそう思われたいし、言われたいです。

 

本当の安心と、絶対に消えない帰る場所が欲しい。

わたしの居場所が欲しい。

私がふわふわ飛んでいきそうになるのを、ただ見ていないで捕まえて欲しい。

私のことを見捨てないでほしい。

ひとりになりたくない。

私が私のままでいても、嫌わないでいてほしい。

 

私は、大事な人に捨てられるのがすごく怖いのです。

自分をさらけ出すことで、夫や親に嫌われたくないし、見捨てられたくないのです。

 

そんな気持ちがあって、夫と親には頼れません。

 

 

 

ちょっとパニックになり寝た

年末年始、実家に帰っています。

 

普段は遠くてなかなか帰れないのですが、子供が生まれてからは長期休暇の時、年2回ほど帰ります。

 

いろんな気持ちが溢れてきて、書きたいことが山ほどあるんだけど、なかなかゾーンに入らず、下書きばかり溜まっていきます。

でも、こうやって気持ちを言葉にしていくことで冷静になれてる気もする。

 

 

実家に帰ると、時間に余裕もあるし、色んな思い出がある実家や場所なので、親との関係、高校の時に長く付き合っていた彼氏のこと、今までの異性関係の記憶がフラッシュバックすることが多く、とても苦しくなります。

 

わたしは実家にいた当時から恋愛に対して歪んだ捉え方をしていて、好き嫌いじゃなく、心の支えだとか、自分を理解する場所のようなものとして利用していた感覚があります。

 

あり得ない束縛や振り回す行動ばかりして、昼夜問わず困らせていた当時の彼氏が書いているブログをたまに見てしまうことがあるのですが、それに自分の事が書かれていたりすると恥ずかしくて消えたくなります。

なのに、実家に帰ると必ず見てしまう。

 

自分の覚えていなかった記憶。

若かった、と一言で済まされる私の無謀な行動と無茶な要求。

私は彼からこう見えていて、いまこんな感情に昇華してくれてるんだな、っていうのを知りたい。

だから彼との思い出が多い実家に帰ると、どうしても見てしまいます。

 

その彼に限らず、好き好き言い合って、もうこの人しかいないと思っていたのに、些細な嫉妬がきっかけで一瞬で相手の気持ちが離れていってしまったり、それを追いかける自分の惨めさとか

 

求められれば応えていた自分は、ただ、男性の性欲処理のために必要だったんだな、と思えるような相手の対応とか

 

本当に好きな人なんてできた事ないんじゃない?ってなんども言われたこととか

 

自由奔放に生きてるね。

自分に正直だね。

すごいね。

いままで私の話を聞いた人にかけられる言葉たち。(全部マイナスの意味に捉えている)

 

いろんな記憶がフラッシュバックしたあと、自分の容姿に耐えられなくなって、今日はパニックになりました。

 

ブスが何をしてるんだろう。お前なんか誰も求めてない。都合良いから使われてるだけ。勘違いするなブス。

 

自分の顔も体も嫌いすぎて、全身整形したいです。跡形も無く別人になりたい。キライキライ。キモチワルイ。

 

こんな容姿で男に媚びて、好き勝手していると思ったら耐えられなくなりました。キモチワルイ。

 

誰も私の事なんて好きになってくれるわけない。ブサイク。

 

それなのに、自分で自分を試すように、私と会ってくれる人を探そうとしてしまう自分に絶望します。

 

自分のしてきたその行動が嫌で、許せなくて、いまこんなにパニックになって、悲しくなって、おかしくなりそうなのに、同じ事でしか上書き出来ない自分。

 

なんでこんなに醜い人間なんだろう。惨め。悲しい。誰とも会いたくないし、会えない。可愛くないから。だけど、見捨てないでほしい。助けてほしい。誰かに必要とされたい。自分が嫌い。キライキライ大嫌い。だから過食する。そして食べない。痩せたいと思うのにいつまでもデブ。肌が綺麗だね。細いね。綺麗な身体だね。その言葉が欲しい。本当に?私が本当に欲しいものは何?

 

私の存在はここにあるんだよね?

私はここにいていいの?

私はなにを怖がっているんだろう。

 

自分がわからない。

おかしくなる。ずっと、涙が止まらない。

誰か、ここに居ていいよって言って。

私がいることを許してほしい。

 

 

表現することで自分の存在を感じることができる

歌とか、ピアノとか、仕事で何かデザインを出すのもそうなのだけど、自分の思いを形にして外に出している時がすごく幸せです。

 

人と喋る時、わたしは本当の自分がわからない。

 人に合わせてカメレオンのように変わっていく自分の性格。

たまに使い分けがわからなくなるし、この人にはどの自分を出したらいいんだっけ、と忘れてしまうこともあります。

 

ひとりのわたしのはずなのに、沢山のわたしがいる。

どれも本物のようで、どれも偽物のよう。

自分がどんな人間なのかわからない。

本当の自分はどれ?

本当の自分はいるの?

 

人と仲良くなると、わたしはどんな性格なの?としつこく聞いてしまう。

わたしが誰なのかを、まわりの評価で判断しようとする。

まわりから見えている自分がいることに安心する。

 

自分のことが知りたい。

本当の自分を見つけたい。

自分の本体がほしい。

いつも不安のは、本当の自分がいない気がするから。

 

そういう意味で、自分の気持ちとか思いがちゃんと形や音として出せて、人に伝わっているのが感じられる表現作業をしている時に喜びを感じます。

 

自分の形や本体が、人に見てもらえている気分になるからだと思います。

 

自分は透明人間だけど、本当はみんなに気づいてほしい。だけど、透明じゃなくなることができない。

だから、色付きのマントを被って存在をアピールしている。

そんなイメージ。

 

 

不安に負けてしまう

やっぱり怖い。

ひとりになるのが怖い。

 

年末年始は、安定した生活が崩れる。

週5日、毎日会社で会っていた人に会えなくなる不安。

その間、誰も会う人がいない寂しさ。

 

誰かに会いたい。

寂しい。

必要とされたい。

 

セックスに逃げたくなる。

私から連絡すれば相手はいるかもしれない。

だけど、もうやめようと頑張ってきた。

 

そもそも、誰かとセックスしたところで私の寂しさが埋まらないのもわかっている。

瞬間的には満たされるけれども、根本の寂しさは絶対に埋まらない。

それをやるなら、複数の人との関係を定期的に続けないといけない。

でも、そしたらまた元通りになってしまう。

 

友達だと思ってた人はいつのまにか友達じゃなくなっている。

いつもそう。

気付けば距離を置かれている。

27歳になっても、友達がひとりもいない自分が恥ずかしいし、虚しい。

 

出会い系に手を出しそうになる。

あんなに簡単に、そして継続して承認欲求が満たされるものはない。

わたしがここにいる感覚が得られる。

生きてる意味がある気がする。

 

でも、わたしはセックスが好きなわけじゃない。

痛いし、疲れるし、好きでもない人とするのは苦痛だ。

でも、私のことを見てくれる。

必然的に一対一の状況になるから安心する。

いま目の前にいる人のことを私はよく知らないけれど、それでも、いまこの人は私のことだけを見てくれている。

 わたしを抱きしめてくれる。

わたしを必要としてくれている。

充足感が得られる。

 

だから、好きじゃない人にも好きって言う。

嘘もつく。

私のことだけをみてくれるなら、どんな手段でも取ろうとする。

 

知らない人と二人きりになった時の幸福感はわたしのアイデンティティの確立にとってとても大事なものだった。

いま、それがなくてバランスが取れない。

自分の周りに誰もいない絶望。

 

ひとりでいるのが怖い。

誰かに見てほしい。

わたしがいることをわかってほしい。

生きてる意味を感じたい。

 

 

仕事に行くのが怖い

最近会社でも、意識が遠くなる事が多くなってきた。

 

周りの人が見ている私は、座ってパソコンの画面を見ている。キーボードを叩いて、本を読んでいる。

 

でも、私の本体は宙に浮いている感覚で、今ここから逃げたいと思っている。逃げ出そうとしている。

 

理由は、人とコミュニケーションを取れないから。そして、コミュニケーションが取れないがゆえに嫌われるのが怖いから。

 

元気がない時、疲れている時は、誰とも話したくないし気も遣いたくない。

でも最近は、元気がなくて、疲れている。

 

私に話しかけないでほしい。私を見ないでほしい。誰の視界にも入りたくない。

消えたい、消えたい。

 

人に嫌われるのが怖い。

意識が飛んでる時の暗い自分を見られたくない。

 

でも、コントロールが効かない。

 

笑えない。口角を上げられない。目を合わせられない。機械のように、淡々とした返事をするだけ。

 

これは本当の私じゃないんだよ、ってアピールしたい。元気だったらちゃんとできるんだよ、って言いたい。こんな気持ちを誰かに読まれていたらどうしよう…。

 

私は、いつも明るくて穏やかな人として存在していたい。そうじゃなきゃ存在価値がない。

 

結婚している。容姿には自信がない。英語も数学も苦手。頭は良くない。

 

ただでさえダメな私が、どうして暗い雰囲気を出しているの?

どうして私は何の価値もないのに、周りをイライラさせる態度を取っているの?

だから、嫌われるんだ。

理想の自分じゃない自分はいらない。暗くて、うじうじしている自分の本体なんていらない。

 

みんなが自分から離れていくのが怖い。

私の態度や行動、私の存在は、人をイラつかせる。

 

眠いなあ。

寝よう。