両極端にいる二人の自分
わたしの自信のなさや、コミュニケーションの下手さ、肥大化する承認欲求。全ての根底にある体験を思い出しました。
ここに書いた出来事は、自分にとって、とても大きな傷を負った体験です。
私以外の子供(いとこ2人と弟)は、親以外の大人と普通にコミュニケーションが取れているのに私はできない。
私にはお父さんお母さんしかいないのに、両親さえも相手にしてくれない。
みんな得意なことがあるのに自分だけ何もない。
お茶をください、すら言えない自分。
最低限のことすらできないダメな私。
誰も、私のことを見てくれない。
私なんて、居なくてもいい。
この時、誰にも見てもらえなかった私は、いまもずっと自分の中にいます。
思春期以降、自我が芽生えてくるのと同時に、私は「言いたいことがちゃんと言える人になる」と決意して、今までの引っ込み思案な自分を捨てようと試みてきました。
ただ、当時は加減がわからなかったのもあり、とにかく大嫌いな幼い頃の自分を早く捨てたい一心で行動していました。
27歳になった今、周りからは、言いたいこと言えて羨ましい、怖いもの知らずだね、気が強い、自分に正直に生きてる。
そう言われます。
だけど、幼い頃の引っ込み思案で誰とも喋れない私は確かに心の中に存在していて、両極端の性格を持つ二人の自分の間を大きく行ったり来たりしている状態です。
飲み会の席で、社長に無礼講とも言える発言をしてしまって、周りにすごいね、よくあんなこと言ったね、と言われると、途端に血の気が引いていく感覚に陥り、泣き出したいような逃げ出したいような気持ちになります。
会議でたくさん発言したり、自分の主張を通そうとしたりするけど、一人になった瞬間、あの場にいた人全員に嫌われたかもしれない、と不安になります。急に誰とも目を合わせられなくなり、私に話しかけないで、近付かないで、ひとりにして、と念じているような時間もあります。
でも、私の主張の根底にあるのは、「私を見て!」という気持ちで、不安の裏にあるのは、「私を嫌わないで」という懇願なのです。
今、私は幼い頃の自分を嫌っていません。可哀想だと思います。
前に書いた時の記憶を思い出す度に涙が出ます。
私は、子供の頃の私を助けてあげたいです。その時の悲しみと絶望感がわかるからこそ、助けてあげたいです。
辛かったね、悲しかったね、と声をかけてあげたいです。
だけど、「でも、あなたはひとりじゃないよ」「居なくなっていい人じゃないよ」という言葉だけはかけてあげられません。
大人になっても、その思いだけは消えないからです。