こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

私を構成するもの

 

 

自信がすぐにゼロになる、弱い私

ふとした時、みんなに騙されてる気分になる。

褒めてもらったことや評価されたこと(良い評価も悪い評価も)は全部嘘だったんじゃないかと思う。みんな適当に、口から出まかせで言っているような気がする。つまり、私に対して無関心。

 

たぶん私がいま、「あなたはこの前こう言ったよね?」って聞いたら「何の話?」って返されると思う。そのくらい、私は他者の記憶に残らない。

みんな私に嘘ついて、適当に、褒めたり仲良くなったりしてるんじゃないかな。

 

その猜疑心を感じはじめると、私の自信メーターはゼロになる。いつもそう。貯まったとしてもせいぜい20%くらいが最高。それすらも一瞬でゼロになる。

だから、自信はいつもない。

 

 

パズルのような、弱い私

私は365日、朝から晩まで、自分を構成する要素を求めている。

私という物体は、なんとなく人間の形をしている立体的なパズルのようなもので、四角くて、カラフルで、片手に収まるくらいの小さなキューブが集まって出来ている。

他人からの私の評価ひとつひとつがそのキューブである。

キューブは秒単位で入れ替わり立ち替わり、高速で集まったり離れたりするので、時折私は人間の形を成さなくなる。キューブの数自体が減って、身体の半分を構成するに満たない時もある。

 

核には、私のアイデンティティ(確固たる自分)があるはずなのだけど、それすらも仮定のもので確立されてないから、キューブが定着しない。

だから私は、私の形を保つために、他者からの評価を常に求め続けなければいけないし、ひとつ残らず回収しなければならないし、その欲求はとめどない。

私を構成する要素を与えてくれるなら、土下座だってする。賄賂だって渡す。体も売る。

そんな気概で作り上げたものが私だ。それなのにこの完成度の低さ。絶望する。

 

気を抜けばすぐに消えてしまいそうになる。マイナス評価が集まれば私はそのままマイナスの塊になる。変化が激しいし、疲れる。

 

腐りかけた根っこのような、弱い私

決められたレールに従うのは楽だ。その道に違和感さえ持たなければ、既に木の幹は完成しているようなもので、枝の伸ばし方とか花の付け方とか、ディティールだけを考えれば良い。

 

一方で、私は歳を重ねるに連れて、幹の部分が膨らんだり曲がったり細くなったりして、結局根っこの部分までほとんど無くなってしまった。

一度種に戻ってしまえれば楽なのかもしれないけど、私には28歳2児の母親として持っている日常があるわけで、全てを捨てて種までは戻るわけにはいかず、日常をこなしながら根っこを伸ばしていかなければいけない状況。

だからどっちにも集中できなくて、根っこは偏った方向へ伸びていくし、日常がこなせなくてストレスは溜まる。

 

弱さの根幹

他者の評価なしに形を持てないことは、私の圧倒的な弱さだ。なんらかの形で人と繋がってないといけないという強い強迫観念を伴う。

 

自信を持ちたい、とか、本当の自分でいたい、とか、私が求めているものの全ての根幹がここにある。

他者からの評価がどうであれ、私という存在は、本当は今のままここに居て良いはずなんだ。誰かに存在を担保してもらう必要なんてない。

だけど、私には、自分がここに居て良いという感覚がない。誰かに自分のことを説明してもらって、その言葉を集めて私は形になる。他者から認められることでしか自分が存在していることを確認できない。

 

人間は、みんなそれぞれひとりしかいなくて、他者とは違う人間であるはず。そして一人の人間の中にはきっと、ひとつじゃない性格や考え方がある。

だけど、私はいろんな人格、考え方を持っている自分を一人の「私」として扱えない。「私」が、日によって、気分によって、体調によって、違う人になる。

文字通り、「私は誰?」状態。

 

だから、誰かに私の形をずっと教えてもらっていたい。依存。

 

そうやって自分の形を保つことに必死で、もっと高度な「今あるものをさらに良くする」みたいな段階にいつまでたっても到達しない。

「人生を楽しむ」とか「夢の実現」みたいなことがまったく考えられない。そんな状況のまま年齢だけ重ねていく。

 

夢や自己実現について考えることすらできないのに、「私が生きてる意味は…」とか考えはじめると死にたくなるから、すごく低レベルなところで漂ってることをとにかく認識するようにしてる。

 

その状況の虚しさは、そのまま、虚しいな、と思うけど、カウンセリングに通って、ブログを書いて、乗り越えようとしている自分にだけ、希望を持ってみる。