書きたい文章が書けない
唯一の感情表現
思わず浮き足立ったり、身体をくるまれたような感覚になったり、今すぐ夜の街を疾走したくなるような文章が好きだ。
だけど同時に、そういう文章を見つけてしまうと悔しい。諦めのような気持ちにもなる。
私は小学2年まで人と喋ることができなかった。
みんなみたいに、楽しい時や悲しい時、生身の人間相手に、口を通して気持ちを伝える器用さを持っていなかった。
それでも伝えたい素直な気持ちや悩みは沢山あって、喋れないもどかしさが助長してか、『伝えたい』という欲求には人並み外れたものがあった。
言葉で話せない代わりに、絵や音楽や文字で、自分の感情を表現しようとしてきたのかもしれない。
長年の確執で、今はもう会うこともない母方の祖母と叔母が家に来た時、私はすがるような気持ちでピアノを弾いていた。
私のことを見て!本当は仲良くしたい!
その思いを伝えたくて必死だった。
だけど、二人が私のもとに来ることはなかった。
祖母と叔母が帰ったあと、母親に「上手だね、って言ってたよ。」と伝えられた。
私はピアノ椅子にもたれて大泣きした。
気持ちが伝わらない悔しさに打ちひしがれた。
上手だね、なんていう言葉が欲しいわけじゃない。心と心で繋がりたくて、私の近くに来て、目を合わせて、体に触れて欲しい。
だけど私は、自分の言葉や態度を操作することができない。
私はその後も無我夢中で創作に打ち込んだ。
実家に帰省した際に見返すと、ギョッとするような細かい幾何学模様が延々と並んで工場の風景を成している絵を描いていたり、あと、私が描くものには、人間の目と手と脳がよくモチーフとして描かれていた。
私にとって文章を書くこと
環境の変化にともなって、だんだんとピアノや絵から離れる代わりに、私は文章を書くようになった。
無地のノートに、その時の思いのままに文字を描いていく作業は、私の精神に一瞬の安定をもたらした。
ミミズが這ったようなヨボヨボの線で支離滅裂なことを書いているときもあれば、教科書みたいに丁寧な字で、自分の将来を前向きに語っている日もあった。
私にとって文章を書くことは、水をたっぷり含ませた筆で、ボトボトと思うがままに絵の具を落としていくような楽しい作業だった。
伝えたい欲求は相も変わらず、膨張して暴れそうになる。それを書き言葉にして昇華させる術を自然と学んだ。
書けない
17歳くらいから10年間、何らかの形で文章を書いてきたけど、人生は年齢とともに複雑さを増していくようで、書きたい内容の難易度が上がってきた感じがする。
それなのに逆に、今まで毎日のようにしていた読書や、新聞のお気に入りの欄を読むことが、忙しい毎日に追われてできなくなっていった。
感覚的な部分に頼っていた自己表現は、それ相応のインプットがあってこそできるものだった。
良い文章を読んだり、心に迫る自然や創作物に触れること、またはただただ内省する一日を過ごすことで、私の感情は自然と言葉になった。
だけど最近は、自分の思考を正確に伝わるように言語化したくて、唸って唸って言葉をひねり出しても、核の部分に全然たどり着けなくて、なんか違うと思いながら発信する。
選びたい言葉や表現がピンポイントで出てこない苦しさがある。
嫉妬
上手な文章を書く人に対してすごいな、と思うのは、人を傷付けずに、心の芯を震わせることができることだ。しかも、オブラートに包むわけでもなく。
直接的な表現を書けば、思いはストレートに届く。
私はよく死にたいと思うし、腹が立つことがあったら他人であっても殺したい衝動に駆られる。
でも、それをそのまま文字に起こした時、それを見て不快に思う人が沢山いる。
私は人に嫌われたくないし、仲良くなりたい。たくさんの人と繋がりが欲しい。
きっと、文章でその願望はきっと達成できると思う。そうしている人がたくさんいる。
だけど私は、いつも感情に飲まれて、汚い言葉で、会ったことのない人を傷付けてしまう。
自分のことも傷付けている。
優しくなりたい。
優しい言葉で人と繋がりたい。
いつのまにか読んでくれている人が増えたけど、いつも一方的な発信だと感じるのは、私が閉じた世界で話しているからだ。
いつもそうだった。自分が自分が自分が。
いつも焦点は自分に当たっている。
繋がりが欲しいと叫びながら、誰も寄せ付けない発言と行動を取ってしまう。
そんなんで友達関係大丈夫なの?
いつか付き合っていた人に言われた言葉が頭の中を延々と駆け巡る。
私は、書きたい文章が書けない。
攻撃性、自己顕示欲、自己否定、私の嫌いなものが全部無くなった文章が書きたい。