こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

目立ちたがり屋の引っ込み思案

こういうことを書くのは、すごく恥ずかしくてすごく嫌な作業なのですが、結構根が深い部分だと思うので書き残しておこうと思います。

 

小学校中学年くらいから、人並みに目立ちたいという気持ちが起こるようになりました。

それまでは、クラス内でのヒエラルキー、飛んで、社会的地位などの認識がなかったのが、徐々に「自分は社会の中のひとりである」という意味がわかってきたという感じです。

いますべき立ち回り、友達を笑わせる発言、そんなことに意識が向くようになりました。

 

わたしのコミュニケーション能力の欠如は、幼稚園を途中入園していることに始まるのですが、人とのコミュニケーションの方法がよくわからなかった私にとって、「目立ちたい」気持ちを満たすのは非常に難しいことでした。

 

とにかく恥ずかしさが先行するし、こう言えば正解、こう言えばみんなが笑ってくれる、という部分のセンスがなかったのだと思います。

 

ただ、テストの成績だけは良かったので、満点を取った人、という時に名前を呼ばれたり、「お友達先生」という、生徒が生徒に教える制度では、教える側になることが多かったりして、そういうことから学級委員に推薦されたり、唯一目立てる場所といったら勉強の部分だけでした。

 

でも、その勉強に関する自信は、高校で進学校に入ったことで打ち砕かれました。

勉強が得意な子たちの中で、わたしは勉強ができないほうなんだ、ということに気づいた時、自分が大切に築いてきた城が崩れていくような絶望を感じました。

 

また、小中学生の頃はスポーツが得意な子がもてはやされる印象があったので、高校で運動部に入ってみたけれど、みんなができる中まったくついていけず。

しかも、中学までの「スポーツできれば人気者」っていう概念もほぼなくなっていて、勉強とともにその部分で自分が折れたのも高校に入ってすぐのことでした。

 

見た目に関しても同じで、中学までは共学だったこともあり、誰かしらと好き好かれる関係がある状態だったのが、高校で女子校に行ってしまったので、学校内で容姿を認められる機会も皆無になりました。

 

こう振り返ると、ターニングポイントは高校入学にあるようです。

この頃から、組織から外れて外で承認欲求を満たそうとする行動を取るようになりました。

そして、それを正当化するために、普通に学校に通って、部活をして、友達と遊んでいる同級生たちを見下すようになりました。

 

人と比較して自分の方が優れている点を探すようになりました。明らかに勝てない人がいる時、それは嫉妬を超えて嫌悪感に変わりました。

 

幼い頃は、ただ単純に、人気者の子が羨ましいという気持ちだったと思います。自分も人気者になりたい、目立ちたい、というような。

 

それが思春期になると、「認められたい」に変化していきました。

根底には変わらず目立ちたい気持ちがあったはずなのだけど、自分にはそれができない。

その事実から逃れるために、認められるためには、別に目立たなくてもいいんじゃないか?

そう思考を変えて自分を救うようになりました。

 

認められる、の定義も人それぞれですが、恋愛ではこっちが近づけば相手してもらえて簡単に認められてる感覚を得られたので、恋愛に依存することが多かったのだと思います。

 

環境の選択を間違えたのか、今までの自己認識が間違っていたのか、両方かもしれないけれど、高校入学後に考え方の歪みを作り上げていたような気がします。

 

27歳になった今も、その時必死で作り上げた自分の性格に悩まされているのだけど、

当時のわたしは、そうすることで自分を守ろうとしていたんだな、と思います。

 

今も、恥ずかしい限りですが、会社の忘年会の出し物などで目立つ役をやる人がいます。

私には何の声もかからない。

それだけで、プライドが傷つけられたように感じます。

その人のことが嫌いになります。

幼くて、短絡的な考えだとわかっていながらも、その当事者を目の前にすると避けようとしてしまう。

見たくないものから目を逸らしたくなる。

自分の反対にいる人が憎い。

 

目立ちたい、という気持ちを消したらいいのか。

いろんなタイプの人がいるんだ、と諦めるか。

自分で理想のキャラクターを演じるか。

どうしたら自分を満たしてあげられるのかわかりません。

 

だけど最近、感情に揺さぶられている自分と、その自分を可哀想と思って助けてあげようとする自分と、明確にふたつに分離している感覚になる時があります。

 

脳科学の本を読みあさっていて、脳の可塑性に期待しています。