離婚した子持ち女はせみのぬけがら
離婚するのがすごく怖い。
どうしてそう思うのか?
考えたくもない。だけど理由は明らかだ。
わたしは、捨てられるのが怖い。だから離婚したくないのだ。
夫だけじゃない。
夫の両親、実の両親、親戚、友達、会社の人、みんなに捨てられるのが怖い。
これからの未来で出会う人たちに捨てられるのも怖い。
離婚したことで、すべてのつながりが断ち切られていくのが怖い。
わたしは、常に愛情を欲していた。
だれかに必要とされて、必要として、関わりあって生きていきたかった。
その願望を叶えるために結婚したんじゃなかったか。
でも、いつまでたっても、継続的な人からの愛情を感じることはできなくて、愛されている実感が得られなくて、不安と衝動に負けた。
自分の必要性を感じたかったし、代わりのきかない何者かになりたかった。
わたしの思慮のなさゆえの安易な行動ひとつで、他人からの信頼がこんなにも簡単にひるがえってしまうものだということをはじめて知った。
夫からもらえていると思っていたわずかな愛情も、その本体を若くて綺麗な女に与えた残りカスだったことを知った。
夫の不倫相手のことを想像するたびに涙が止まらなくなる。わたしはそんな女たちにさえ勝てるものを、いまはもう何一つ持っていないのだ。
強がることはいくらでもできるけど、その裏で何倍もの不安と悔しさ、自分の惨めさに涙していることは誰にも言っていない。
これを夫が聞いたら演技性障害だと罵るだろう。
義父母は自分のやったことの責任だと突き放すだろう。
だけど、わたしがわたしの欲しいものを求めることがそんなに間違っていただろうか。
長年上手に築くことができなかった愛情とか信頼とかを、不器用にも構築しようともがいてきたことがそんなに批難されることだろうか。
愛情や信頼は、それほどまでに大切で、欠くことができなくて、手に入らなかったら頭がおかしくなってしまうほど、人間にとって必要不可欠なものなんじゃないか。
だからといって、ここで自分の正当性を主張するつもりはない。
ふと我が身を振り返ってみれば、30歳を目前に控え、若さと、若さゆえの美貌など跡形もなく、子供を二人育てた乳房は惨めなくらいにしぼみ、女性器は使い古され、皮膚の張りも失い、表情は疲れ果て、「せみのぬけがら」という言葉がしっくりくる。
そう。もうわたしには若さがない。
新たに子供を生む余力もほとんど残っていない、幼い子供二人を抱えた女というだけですべてに負けた気がする。
だから悔しい。
夫の不倫相手がのうのうと幸せな人生を送れることも。
夫が悠々自適に新しい人生を送ろうとしていることも。
そして同時に怖い。
そこに対抗しようとしたって、わたしは結局歳を食って使い古され、良質な成分は全て搾り取られ、落ち葉に紛れて踏み潰されるせみのぬけがらでしかないのだ。
子供たちを無事育て上げることだけを目標に生きていく。
だけど、子供たちが私の元を離れていったとき、さらに枯れ果て、持ち上げたらくしゃりと潰れてしまいそうなせみのぬけがらなどに、何の価値があるだろうか。
十年物のせみのぬけがらに、奇跡的に価値がついたりしないだろうか。
この期に及んで自分の価値を確かめたいと思う自分の惨めさがますます悔しい。