こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

私が幸せになってはいけない理由

 

 

制限のないひとり時間

一昨日〜昨日は、旦那が子供達を義実家に連れて行ってくれたので、久しぶりに一人で過ごした。

 

行けていなかったジムも、昨日行けた。

身体のフワフワ感が抜けなくて、ほとんど休んでいたけど、行けた。

 

自転車を漕いでる時も、子供達の話を聞かなくていいから、空を見たり、風景を見ながらゆっくり漕いだ。

 

紫陽花が綺麗だな、お母さんと電車を見てる男の子が可愛いな、抱っこされた赤ちゃんが傘を持って遊んでるの可愛いな。

 

綺麗、可愛い。

そういう感情を久しぶりに持った。

 

一人で、時間に追われないで過ごすことって大切だな。

 

 

知らないおじいさんに感じた“無償の愛”

おじいさんに補聴器屋さんを探してあげる

ジムの帰りに、駅でおじいさんに話しかけられた。

 

「補聴器のお店を教えてほしい。」

 

めんどくさい…。変な人じゃないかな…。

一瞬迷ったけど、調べて、店の前まで一緒に行った。エレベーターの二階なのでここから行けますよ。と伝えた。

 

「お姉さんありがとう。」

小っちゃい声でそう言って笑顔を見せてくれるおじいさんを見て、お店探してあげてよかった、と思った。

 

無償の愛って? 

なぜかその時、久しぶりに感じた無条件の愛。無償の愛ってこれ?

見返りを求めない優しさ。

 

いつも誰かと戦っている感覚。

例えば子供におやつをあげるときも、「片付けしてからね。」

旦那が飲みに行くときも、「じゃあ来月、私が夜飲みに行ける日を教えて。」

人と対等でいないといけないと思ってて、自分が損をするのがすごく嫌。自分が不利になるのもすごく嫌。だから、交換条件を出すのが癖になっている。

 

子供がもらうべき“無償の愛”

私は見返りを求めずに子供と向き合えてる?

「私が大人になって苦しんだから、娘には自分と同じ苦しみを味あわせたくない」と子供の幸せを願う気持ちが、押し付けになっているかもしれない。

子供に、「私と正反対の人間に育つ」という見返りを求めて子育てしている気がする。

 

「私みたいな性格の娘」がありのままの彼女だということを認められないから、必死に私と違う人間になるようにコントロールしようとしている。

 

それは、“無償の愛”ではないよね。

 

幸せを感じることへの抵抗

『子どもを生きればおとなになれる』

おじいさんと別れて、カフェで本を読んでいた。

カウンセラーさんに進めてもらった本。

 カウンセリングを受けているような感覚になれる本。

 

 

許されていなかったことを言葉で許してくれる。自分の思考では触れられない心の奥底に入ってくる。読んでると、過去の記憶だったり、固く閉ざしていたはずの心の蓋を開かれそうになって心がざわざわする。

だけど、私はこれからこのざわざわと向き合って、ちゃんと整理して、歪みのない価値観を学んでいくんだと思って、暴れそうになる感情を一旦落ち着けた。

 

予定外の出来事にイラつく

1時間くらい経った頃、仕事に行っていた旦那から電話がきた。

「義父が車で子供達を家に送ってて、もう着いてる。すぐ帰れる?」という電話だった。

 

この日は夜、旦那が仕事終わりに子供達を迎えに行くと言っていたので、私は夜まで自由に過ごせると思っていた。

 

家に帰ってやろうと思ってた掃除、片付け、本や書類の整理。

全部できなくなる。私の時間はまた奪われる。

そう思ったらイラっときてしまった。

私の不機嫌な感じに旦那もイライラしはじめたから、とりあえず電話を切って家に向かった。

 

まだひとりでいたかったというイライラがパチパチと火花を散らす。私、このイライラをお義父さんにもぶつけてしまうかもしれない。子供達を一晩+一日終日見るのが嫌だから、連絡もなしに連れてきたんだ。と思うと、火花の音が激しくなっていくようだった。

 

気持ちの変化

だけど、一人で自転車を漕いでいる間に、だんだんと気持ちが変化してきた。

 

私は帰ったらまずお義父さんに「ありがとう」と言うべきだ。

時間の制限なく、子供達とまるっと離れたことで、少しだけどプラスの感情を持つ余裕ができたのだから。

 

そもそも、私は人にありがとうとか愛してるとか言えない。

仕事で使うようなうわべなものはペラペラ出てくるけど、私生活では皆無だ。

 

嬉しい。

楽しい。

しあわせ。

大好き。

ありがとう。

 

そういう感情を、顔や身体を使って表現しようとする時、何か邪魔してくるものがあった。

 

だから、学園祭で盛り上がってる同級生の輪には入れなかったし、運動会で声を枯らして応援することを茶番だと感じた。子供の卒園式や入学式も、所詮生活の区切りを可視化しただけだと考え、感動して泣いたりすることもなかった。

しあわせっていう感覚をどうやって維持するのか、そもそもしあわせっていう感覚にどうしたらなれるのか。考えようとしたこともなかった。

 

私が幸せになってはいけない理由

私がプラスの感情を持とうとしない理由。

幸せになろうとしない理由。

それはたぶん、自分が親より幸せになってはいけないと思っているからだと思う。

 

昔、私の実家は経済的な余裕があったけど、今はない。だけど両親は引きこもりの弟を養わなければいけないし、高齢出産だから父親なんかはもう70歳近くて、働くのも難しい。

それなのに、仕事を探してるとか、仕事の面接を受けたとかいう話を聞いて、心臓をペンチでギューっとつままれたように苦しくなった。パニックを起こしそうになった。

 

両親がそんなに苦労してるのに、私だけが幸せになるなんてありえない。

親が辛い時は、私も辛くないといけないし、

親が貧乏な時は、私も貧乏じゃないといけない。

 

自分だけが、ジムに行ったりランチしたり、贅沢していることに、尋常じゃない罪悪感を覚えた。

100万くらい包んで渡せたらいいのだけど、そこまでの経済的余裕もない。

私が正社員になって、初めてボーナスが出ると聞いた時、半分は実家に送ろう、と即座に考えた。

 

親と私は、一緒じゃないといけない。

一緒の感情を持ち、一緒の生活水準で、一緒の価値観を持っていないといけない。

 

でも、よく考えると、そんなはずないよね?

親は親、私は私だよね?

今現在の私の家庭と、私の実家は別物だよね?

 

だけど、親がかわいそう。

楽させてあげたい。

親は全身全霊、全財産、彼らの全てを私に注いでくれた。

それなのに、私は何にもなれていない。

それどころか、輪郭さえも曖昧な未完成の人間だ。

両親の財産や期待を食いつぶして踏みにじった責任を私は負うべきだ。

 

両親を助けてくれる身内はいない。

私しか、両親を支えてあげられる人はいない。

二人とも、いつも孤独で可哀想だ。

 

だから、私は自分が幸せになることにすごく抵抗を感じる。

早く親にあげられるくらいのお金を稼ぐか、早く死んでほしい。

そうしないと私は、「両親を幸せにする」という責任から解放されないし、「私は幸せになってはいけない」という呪いからも逃れられない。

 

頭ではおかしな部分に気付いているのに、私は両親を見捨てることができない。

私は両親に愛されて大切にされた。

全てを与えてもらった。

それなのに、私がふたりを見捨てるなんてありえない。