こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

仕事から学んだ事

昨日は、都内の貸会議室を借りてミーティング&勉強会でした。

 

上司が面白いコンテンツを色々と考えてくださっていて、すごく勉強になった一日でした。

自分の強みと弱みが明確になったことも大きな収穫でした。

 

強み
  • 考えた事を図解したり、文字でアウトプットするのが得意
  • 積極的に発言できる
  • 常識にとらわれない視点がある

 

弱み
  • 英語が絶望的にできない
  • 数学が絶望的にできない
  • ニュース、新聞に興味がない
  • 人前でわかりやすく、楽しく話すのが苦手(場慣れしていない、自信なさそうに喋ってしまう時がある)
  • せっかく勉強してきた経営の知識を忘れかけている、またはよく理解していない箇所がある

 

取り急ぎの課題として、人前に立って話すことに抵抗をなくし、最低限のビジネス英語くらいはできるようになりたいと思いました。

あとは、新聞の一面記事くらいは読む。

 

仕事が忙しくない時期に、簿記や経営の資格の勉強をしたことは、いまかなり役に立っています。

忙しいけど、今後も新聞や本を読み、インプットをちゃんとしていきたいと思います。

 

今読んでるのは、留学しない英語の学習方法と、脳科学と、境界性パーソナリティ障害について。

やっぱり興味のある方向にベクトルが向いていると楽しいです。

 

そして、インプットしたらアウトプット。

脳の構造などは難しいので図解したり、境界性パーソナリティ障害については、改善のキーワードになるものをピックアップしたりしています。

頭の中にある情報を整理して書き出していくのが昔から本当に好きでした。

それはいま、仕事でも人生でもとても役に立っています。

 

そして大事なこと。

わたしの全ての活動において共通しているのは、

「人は性格を変えられるのか」という問いが根底にあることです。

そして、希望的観測ながらも「人は性格を変えられる」と思っています。

それを、脳科学や心理学、精神医学など色んな領域からのアプローチで解明していきたい。

 

いま、わたしは自分の性格に非常に悩まされています。

これだけ楽しいと言っておきながら、何かの拍子に、今すぐ死にたいと言い出します。

大好きな人が翌日には嫌いになるし、言うべきではない事が口をついて出てしまう。

衝動的に人を傷つける言動をしてしまう。

そして、そんな自分の行動が理解できず、後悔してもしきれない気持ちになることが多くあります。

 

でも、こんなわたしだからこそ提示できることがあると思うのです。

 

  • 若年出産
  • 育児について徹底的に悩んできたこと
  • 25歳からのキャリア形成
  • 精神不安定の克服
  • 経営の勉強をしてきたこと
  • 脳科学、心理学、精神医学への興味関心
  • ヨガ
  • キックボクシング
  • 編集の仕事を通してアウトプットを学ぶこと
  • 音楽(ピアノ、エレキベース
  • ブログ

 

自分に関連する事を書き出してみましたが、どことどこが繋がるのかわからない。だから、同じ事をしていても、今までの経験や興味関心のある範囲が違う限り、絶対に人それぞれ違う結果を出せるはずなのです。

 

バラバラと分散しているものをわたしが再統合できたら絶対に自分のためになるし、きっとどこか他でも役に立つと思っています。

そしてただ純粋に、新しい知識が自分に入ってくることはなによりの喜びだと昨日再確認しました。

学習意欲が向上すると、少し元気になります。

 

 

 

 

 

 

 

仕事の事とこのブログ

いつもとまったくカラーが違う記事になると思いますが、仕事の話をしようと思います。

 

わたしは21歳で長女、24歳で長男を出産しています。

長女を妊娠した当時、わたしは四年制大学に通っていて、学生結婚、学生出産でした。

大きいお腹を抱えて授業を受け、産後はおっぱいを飲ませながら自宅のパソコンで卒論を書いていました。旦那に子供を見てもらえる日は大学に行ってゼミに参加し、張ってガチガチになったおっぱいを校内のトイレで搾乳していました。

 

周りが就職活動をする中、仕事をしたい気持ちはあれど、当時のわたしには乳飲み子を預けて働くイメージが全くできずにいました。

ありがたいことに、ゼミの先生が学校事務の正社員の仕事を紹介してくれましたが、即答でお断りしました。

その頃のわたしには、自分と子供とを切り離して考えることが難しかったのです。

 

長女の産後はお金がなかったので、旦那の帰宅後、夜間のパートで少しだけ働いていました。学生時代にアルバイトをしていた飲食店です。

そのあと、認証保育所に長女を預けて、日中週5日、パートで事務の仕事をしていましたが、長男の妊娠で退職し、産後はまた夜パートで働きました。認可保育園に入れたのを機に日中販売のパートをしていましたが、やってもやっても認めてくれない職場への不満が募り、今の仕事に転職しました。

今の仕事は、事務と刊行物の編集業務です。

 

転職活動の際

①正社員

②営業職

③仕事を正当に評価してくれる職場

この3点にポイントを絞って活動しました。

 

転職活動をはじめた当時、わたしは25歳。

世間的にはまだ若いよねと言われながらも、25歳で子供二人抱え、時短希望、極め付けは正社員経験ゼロ。

一方で、仕事をするのが好きで、認められたい・上に行きたい気持ちが強い性格。

 

25歳で子供二人。正社員経験ないけど、どこまでやれるんだろう?という興味と、この状況をマイノリティ、ハンデと捉えずレアケースと捉えたら、わたしの人生って結構希少価値があるんじゃないかという希望から、経験したことをブログに残したり、色々なアウトプットを試してきました。

 

一時期アメブロで、育児と仕事についてのブログを書いており、自分と同じように若年出産し仕事もしている同年代の方々との交流が広がりましたが、わたしなんかとは比較にならない学歴や職歴、能力がある方が多く、居場所を失っている感じがあったためフェードアウトしました。

 

それから仕事については、誰とも交流のないブログに書いたりしていましたが、このブログとのギャップに自分自身がついていけなくなる感覚がありました。

 

このブログでは、自分のいちばん闇の部分をストレートに曝け出しているけど、仕事について書いているブログは、論理的な文章であることを重要視しており、どうわかりやすく伝えるか、ひいてはどう他人の役に立てるかに重点をおいて書いていました。

 

でも、それだと更新に時間がかかるし、何より文章としての精度を上げることは自分の本心から遠ざかることと同義だと思っていて、「本音である事、嘘をつかない事」を文章を書くときのポリシーとしている自分とは相容れない部分がありました。

 

仕事はわたしの人生にとってすごく大切なものですが、それを自分の性格や思考と切り離すことはできません。

自分がいるからこそ、自分の性格があるからこそ仕事をさせてもらえます。

そういう意味で、このブログに仕事をしている自分を統一させるのは良い事なのではないかと思いました。

 

前に書いたことがあったと思いますが、わたしには自分で把握出来る限り3つの人格があります。そのどれかになりたいわけじゃなくて、全部を統合して一人の自分になり、その自分を好きになりたいのです。

 

仕事をしている自分も、元気のない自分も、優しい自分も、全部好きになってあげたい。

自己カウンセリングの一環として、今後仕事についての記事が出てくると思いますが、お許しいただけたらと思います。

 

もう落ちる。

止まらない兄弟喧嘩。

いつも上が喧嘩を吹っかける。

 

風邪を引いていて身体中が痛い。微熱。声が出ない。寒気がする。もう寝たい。

 

でも、子供の髪を乾かして、歯磨きに着替えに、明日の保育園の用意。溜まった皿洗いに山のような洗濯物。埋もれたソファー。テーブルの下の食べこぼし。

永遠にやることがある。

 

話が逸れるけど、独身の女、子ナシの女で、時短ママ社員はいいよね、って言う奴いるみたいだけど、てめえがやってみろよ、って本気で思う。

仕事の前後が子供と家事でフルにスケジュールが詰まってる毎日をおまえがやってみろよ。

ムカつく。

 

いつも上の子は、下の子のやる事なす事に口を出し手を出し、思い通りにいかないと叩く。

なるべく放っておくけど、今日はもうキャパオーバーだった。

暴言を吐きまくった。

おまえはいらない。

他の親探せ。

性格が悪い。

頭が悪い。

何度言ってもわからない。

反省しない。

嫌い。

死ねばいい。

 

同居の弟が、それは酷すぎる。

そういうことは言っちゃだめだと言ってきた。

 

お前みたいな、実家に甘えてのうのうと生きてる奴に言われたくない。

いつまでたっても自立できない。

人に感謝もない。

恩返しすることも考えられない。

嫌だったらすぐ逃げればいいと思ってる。

そんな奴に言われたくない。

 

何かわからないものへの抵抗。

子供は大好きだし、弟は味方だ。

家族なのに、攻撃してしまう。

 

だめなのは、死んだほうがいいのは自分だ。

だから人に嫌われる。

友達もいない。

みんな離れていく。

全ての人に嫌われる。

最低だ。

生きてる価値のない人間だ。

反省しないのはお前だ。

同じことを繰り返してるのはお前だ。

こんな奴死ねばいい、ほんとうに。

みんな敵だ。

みんなわたしのことが嫌いなんだ。

 

壊れる。

 

 

 

 

 

 

 

目に入るものすべてが敵に見える一日

昨日の夜寝られず、案の定寝坊。

そのせいで、9時からの職場の勉強会に遅刻。

遅れて参加しようと思ったけれど、人が多くて部屋に入りきらなさそうだったから諦めた。

しかも今日最終回。

自分が遅刻しただけなのに、勝手に疎外感を感じる。

 

その後も、いつも話す人にスルーされた気がするとか、些細なことでイライラ。

だんだんと、目に入る全ての人が敵に見えてくる。

 

イライラの感情を抑えようとする自分がいるのはわかるんだけど、抑えきれない。

誰とも喋りたくない、目を合わせたくない。

ひとりになりたい。

誰もわたしの視界に入ってくるな。

そんな気持ち。

 

結局中立派の自分は負けて、怒りと悲しみが混ざったような複雑な気持ちのまま急いで帰宅した。

 

子供の保育園の先生にもイライラする。

日々、挨拶しても返事がない先生が多いことなどで、全ての信頼が失せている。

普段ほとんど怒られない子供が、珍しく先生に怒られた、と話していたので理由を聞くと、友達におもちゃを渡そうとした時に別の子とぶつかってしまったらしい。

走ってたの?と聞くと、走ってない。

わざとやったんじゃない?と聞くと、わざとやってないという。

先生に、わざとじゃない、って言った?と言うと、「わざとぶつかってない」って言ったのに先生に「わざとやったんでしょ」って言われたらしい。

 

別に、我が子を擁護しようとしてるんじゃない。

状況は見てないからわからないけど、もし子供の話が本当だったら、なぜわざとやったって決めつけるんだろう、と思う。

これが、姉の通ってる保育園の話だったら、そういうこともあるよ、って言える。

園自体に信頼感を持っているから。

でも、下の子の園には信頼がないから、悪い方に疑ってしまう。

イライラする。

 

 

 

 

 

 

 

大事なこと

私は子供のことが好きだ。

 

些細な子供のいたずらも、本当だったら許せる。

いくら部屋がぐちゃぐちゃになっていたって、子供らしくていいと思える。

わがままを言うのも、癇癪を起こして泣くのも、可愛いと思う。

子供と離れている時間があるから、そう思える。

 

広告で出る虐待の漫画が死ぬほど嫌い。

一日引きずるくらい悲しい気持ちになる。

 

子供を育てるには、親に余裕がないといけない。

お金がないといけない。

金銭的な余裕がないのに子供を産むから負担になる。

精神的な余裕がないのに子供を産むから育てるのが苦しくなる。

子供を育てる余裕のない親の元に生まれて来てしまった子供のことを考えると悲しくなる。

 

いま私は働いていて、金銭的にすごく苦しいわけじゃない。

だから、子供と離れることが必要だと思ったら、お金を出してその制度を使える。

 

子供二人を毎週日曜日に一日預けて、一ヶ月で15,000円くらいかかる。

お昼はお弁当を持たせ、夕食は出してくれる。

 

子供がいない時間に何かしたいことがあるわけじゃないけど、月曜〜土曜までフル稼動だから、一日休まないと壊れると思った。

子供が好きだからこその選択だと思ってる。

自分じゃどうしようもできなくなる前に、周りに助けてもらうしかない。

子供達を育ててくれるのは、私と旦那だけじゃない。

祖父母や、自治体にも育ててもらわないといけない。

私ひとりでちゃんと育てる自信はないから。

 

そのために、親である自分に唯一できることは、助けを求めること。

できない、ってちゃんと言うこと。

ひとりでできると思っているから苦しい。

子育てはひとりではできないと思う。

 

子供のことを最優先に考えるからこそ、

親であるプライドも、自分としてのプライドも、全部捨てられる。

 

わたしは、ひとりじゃ子供を育てられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目立ちたがり屋の引っ込み思案

こういうことを書くのは、すごく恥ずかしくてすごく嫌な作業なのですが、結構根が深い部分だと思うので書き残しておこうと思います。

 

小学校中学年くらいから、人並みに目立ちたいという気持ちが起こるようになりました。

それまでは、クラス内でのヒエラルキー、飛んで、社会的地位などの認識がなかったのが、徐々に「自分は社会の中のひとりである」という意味がわかってきたという感じです。

いますべき立ち回り、友達を笑わせる発言、そんなことに意識が向くようになりました。

 

わたしのコミュニケーション能力の欠如は、幼稚園を途中入園していることに始まるのですが、人とのコミュニケーションの方法がよくわからなかった私にとって、「目立ちたい」気持ちを満たすのは非常に難しいことでした。

 

とにかく恥ずかしさが先行するし、こう言えば正解、こう言えばみんなが笑ってくれる、という部分のセンスがなかったのだと思います。

 

ただ、テストの成績だけは良かったので、満点を取った人、という時に名前を呼ばれたり、「お友達先生」という、生徒が生徒に教える制度では、教える側になることが多かったりして、そういうことから学級委員に推薦されたり、唯一目立てる場所といったら勉強の部分だけでした。

 

でも、その勉強に関する自信は、高校で進学校に入ったことで打ち砕かれました。

勉強が得意な子たちの中で、わたしは勉強ができないほうなんだ、ということに気づいた時、自分が大切に築いてきた城が崩れていくような絶望を感じました。

 

また、小中学生の頃はスポーツが得意な子がもてはやされる印象があったので、高校で運動部に入ってみたけれど、みんなができる中まったくついていけず。

しかも、中学までの「スポーツできれば人気者」っていう概念もほぼなくなっていて、勉強とともにその部分で自分が折れたのも高校に入ってすぐのことでした。

 

見た目に関しても同じで、中学までは共学だったこともあり、誰かしらと好き好かれる関係がある状態だったのが、高校で女子校に行ってしまったので、学校内で容姿を認められる機会も皆無になりました。

 

こう振り返ると、ターニングポイントは高校入学にあるようです。

この頃から、組織から外れて外で承認欲求を満たそうとする行動を取るようになりました。

そして、それを正当化するために、普通に学校に通って、部活をして、友達と遊んでいる同級生たちを見下すようになりました。

 

人と比較して自分の方が優れている点を探すようになりました。明らかに勝てない人がいる時、それは嫉妬を超えて嫌悪感に変わりました。

 

幼い頃は、ただ単純に、人気者の子が羨ましいという気持ちだったと思います。自分も人気者になりたい、目立ちたい、というような。

 

それが思春期になると、「認められたい」に変化していきました。

根底には変わらず目立ちたい気持ちがあったはずなのだけど、自分にはそれができない。

その事実から逃れるために、認められるためには、別に目立たなくてもいいんじゃないか?

そう思考を変えて自分を救うようになりました。

 

認められる、の定義も人それぞれですが、恋愛ではこっちが近づけば相手してもらえて簡単に認められてる感覚を得られたので、恋愛に依存することが多かったのだと思います。

 

環境の選択を間違えたのか、今までの自己認識が間違っていたのか、両方かもしれないけれど、高校入学後に考え方の歪みを作り上げていたような気がします。

 

27歳になった今も、その時必死で作り上げた自分の性格に悩まされているのだけど、

当時のわたしは、そうすることで自分を守ろうとしていたんだな、と思います。

 

今も、恥ずかしい限りですが、会社の忘年会の出し物などで目立つ役をやる人がいます。

私には何の声もかからない。

それだけで、プライドが傷つけられたように感じます。

その人のことが嫌いになります。

幼くて、短絡的な考えだとわかっていながらも、その当事者を目の前にすると避けようとしてしまう。

見たくないものから目を逸らしたくなる。

自分の反対にいる人が憎い。

 

目立ちたい、という気持ちを消したらいいのか。

いろんなタイプの人がいるんだ、と諦めるか。

自分で理想のキャラクターを演じるか。

どうしたら自分を満たしてあげられるのかわかりません。

 

だけど最近、感情に揺さぶられている自分と、その自分を可哀想と思って助けてあげようとする自分と、明確にふたつに分離している感覚になる時があります。

 

脳科学の本を読みあさっていて、脳の可塑性に期待しています。

 

子供達と離れることへの思い

毎週日曜日、可能な範囲で子供達を支援センターに預けることにしました。

 

最近、土日になると、尋常じゃない眠気に襲われ、頭が全く回転しなくなります。納豆巻きと味噌汁を作るのに1時間かかってしまいます。

先週も、気付いたら変なところで寝てしまっていて、目が覚めると、上の子の習い事のお迎え時間をすっかり過ぎていました。

お友達のママが一緒に待っていてくれて、罪悪感でいっぱいになりました。

 

今までは、旦那が土日休みだったこともあり、家族全体のスケジュールに余裕がありました。日曜日はわたしがジムに行かせてもらって、うまくひとりの時間も持てていました。

でも、最近は旦那が週7出勤で、深夜と早朝しか家におらず、私もですが、それ以上に子供達は全く旦那の姿を見ていないと思います。

 

子供達も荒れています。

昨日は、下の子のお迎えに行った時、まだ靴を履いている途中で私が先に外に出てしまったら、怒って突き飛ばされました。

私はその時しゃがんでいて、もう力も強いので後ろに倒され、他の親の前で3歳の子に突き飛ばされている自分に絶望しました。

 

上の子も、今まで人懐っこいだけだと思っていたのですが、外では他のママや他の大人にベッタリで、「ママじゃなくて〇〇ちゃんのママがいい!」と言われます。

私に愛情不足を感じていて、他のお母さんに愛情を求めてるんじゃないだろうか。だんだんとそう見えてきてしまって、大丈夫かな、と不安になります。

 

一概に、旦那がいないから悪いというわけじゃないけど、わたしの性格では子供が正常に育たないという不安が常にあるので、子供達の精神衛生上頼みの綱である旦那不在の状況はそれに拍車を掛けていると感じます。

 

平日は朝早くから夜遅くまで、週5で保育園に行っている子供達。

これ以上外に預けるのは可哀想と思い込んでいました。

だけど最近は、寝たきり、またはイライラしっぱなしの母親と一日中何もせずに過ごすより、

適切な保育環境においてあげた方がまだマシなんじゃないかと思い始めています。

 

自分の負担を減らすために預ける、と考えたら罪悪感に苛まれるけれど、

子供のためにも良いと思えば、良い選択だと思える。

自分に都合の良い解釈ですが。

 

そういうわけで、私が心身のバランスを取りづらくなる日曜日に、支援センターの保育を使うことにしました。

 

 

過去、自分が子供だった頃、親から離れている時間が本当に寂しくて辛かった記憶があります。

私はいま、その記憶を元に、子供達の事を決めてしまっている。

 

だけど、子供の頃の私と、私の子供達は別の人格。

「あんな寂しい思いをさせちゃいけない」って思うのは、子供の頃の私への気持ちであって、

自分の子供達への気持ちではない。

 

あの、強烈に不安な気持ちを感じながら母を待っているあの頃の私を、大人になった私が斜め上から見ている映像が脳裏に何度も浮かんで、いたたまれない気持ちになることがよくあります。

 

幼い私、それを見ている大人の私、それを外から見ている今の私。

3人の自分がいて、それぞれがそれぞれの不安を持っているイメージ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログの事を人に話してみたら

「性格を変えたくてブログを書いている」っていう話を、はじめて人にしました。

 

私がこのブログを書いている理由は、

「どうやったら性格を変えられるんだろう?」

っていう問いがあるから。

 (自信のなさからこの書き方をしているけど、本当は、「自分の性格を変えるため」にブログを書いています。断定。)

 

さらに、
「なぜ性格を変えたいのか?」というと

  • 私の育て方や性格のせいで、自分の子供が大人になってから苦しむ事がないように「普通の親」になりたいから
  • 人との長期の関係構築ができるようになりたいから(「普通の友達」がほしい)

 

そのために、

脳科学の研究本を読んだり

精神障害の本を読んだり

同じような状況の人のブログを読んだり

カウンセリングや

心療内科など、

 どんなアプローチが、どんな風に効くんだろう

っていうのを試してきた結果を残したい、と思ってきました。

 

一方で、感情の変化や嘘のない気持ちを書き出して、

「都合の悪いもの」であるがゆえに記憶から飛ばしてしまっている言動(解離っぽい現象)を記録する場でもあります。

 

2015年の3月から書き始めて3年弱になりますが、

ブログを書いている事で、何か変わったところってあるかな?と考えました。

 

気持ちが不安定な時は、

「何をしても私は変われない。」

と悲観的になります。

だけど、冷静に見たらどうかな?って。

 

昨日人と話した時に、

なんでブログに書いてるの?

公開してる意味は?

何か変わったの?

と聞かれて、そういえば、読み返すことはあるけど、振り返ることってなかったな、と気付きました。

 

仕事でもなんでも、「その行動をすることで求めたいものは何か」を意識して動かないと、結論を出すのも解決に導くのも難しいとわかっているのに。

自分を俯瞰的に見て改善の道を探そうとしているのに、気付いたら中に入り込んでしまっている状態が多くありました。

 

なので、ちゃんと全体を振り返って、変化を意識して見たのは初めてでした。

 

変わったこと
  • 自分には多重人格の気があり、善・通常・悪の三人がいることが整理できた
  • 今の自分がどの状態にいるかは把握できるようになってきた
  • 性格が切り替わったのにも気付く
  • だけど、どのタイミングで、何がきっかけで切り替わるのか、スイッチがわからないから、コントロールができない
  • 「悪」状態に陥っているときは、人を選んで標的を定めて徹底的に潰そうとしてしまう
  • 三人称のどれを捨てたい、どれになりたい、じゃなくて、全部をひとつにまとめて一人の自分になりたい
  • 無意識で「悪」の状態に陥って記憶なく人を傷つける行動を取っているのが怖い
  • 怒っている時や泣いている時、「感情のままに動いている自分」と、「その原因や対処法を考えている自分」が同居するようになった(できない時もある)
  • 一概にボーダーだ、鬱だ、と言ってひとつの病気だけにフォーカスして改善に注力するのではなく、もっと「自分」について定期的、客観的に見ないといけないと思うようになった
  • ブログの目的やアプローチ方法を何度も考えることで、改善したい目的を明確にできた(上述の「わたしは子供のため、自分のために性格を変えたい」)

 

変わっていないこと
  • 自分の分析ができてきた反面、行動については全くコントロールできていない

 

こんな話をこの前して、「こんなに自分の三人称(悪、通常、善)を喋れる人初めて会った。根は真面目で、ちゃんと考えて頑張ってるんだね」と褒めて(?)もらった一方で、その人に言われた

「ボーダーの人は結婚すると良くなったりするけど、どうせ離婚するんだよね。」

「友達いなくていいって言うなら、別に勝手にすればいいんじゃない?俺は友達がいるから結婚しなくてもいいくらい楽しいけど。」

「特定の人に出してる態度は、人に見せちゃダメなやつだよ。自分の評価下げるだけ。」

っていう発言に負けそうになる。

もう話をしてから何日も経ってるのに、思い出して泣きそうになる。

馬鹿にされているし、見下されているし、惨め。

しかも、自分は無意識なのに人は気付いてることへのショック。

 

人と会うと、その瞬間はひとりじゃないことで満たされるけど、その後の公開とか不安とか寂しさの反動が大きい。

今回は、今まで人に話したことのなかったこのブログのことを話してしまったし、なんか自分だけが丸裸で全てをさらけ出しているのに、相手はダウンコートを着ているような。

惨め。

つらい。

本当に、わたしには一生本当の友達なんてできなくて、歳を取ったら誰も会ってくれなくなって、

ひとりで虚しく死んでいくのかもしれない。

 

やっぱり人と比べてしまう。

今回話した人はたくさん友達がいて、結婚すべきという概念も捨てている。

人生を楽しむ術を身につけている。

一方の私は、結婚・子供という繋がりに安住しているだけ。家族だからといってバラバラにならないとは言い切れない。

この繋がりがなくなったらひとりになる。

いまはそんな不安な気持ち。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「抱きしめる」だけでいい

Twitterにダラダラと書きなぐっていましたが、

夫のことと、外での人間関係に疲弊しきっていました。

 

誰にも愛されない自分を目の当たりにしたようで

すべての努力や我慢が無意味だと感じ

自分しか信じるものがなく

その自分でさえ不安定。

 

あなたのことはわたしが守ってあげるよ、と

ひたすら自分に言い聞かせて、落ちるのを防いでいました。

不安定な自分に守ってもらう不安。

だけど、強い自分がいるはず、という無理やりの希望。

いつか崩れる瞬間に怯えながら、

ただ、大丈夫、と繰り返しました。

 

みんなが敵に見える時、

わたしの頭の中には人の顔がスライド方式で次々と出てきます。

それを、敵、味方のどちらかの箱に仕分けする作業をします。

そして、味方の箱が空っぽになるのを確認し

虚しくて死にたくなるのです。

 

ただ、前もそうだったのですが、義母だけは、わたしの味方ボックスにいました。

人を好き嫌いで判断せず、嫌なことも受け入れ、批判をされてもあっけらかんとしていて、自分を強く持っている義母。

離婚の事を義母に相談した - ゆるゆる子育てライフ

 

昨日は、子供の保育園の行事があり、朝からバタバタとしていたので、子供達を連れて実家に帰っていた旦那とは現地で会いました。

旦那とは喋らず、ずっと別行動。

終わると旦那はひとりで実家に帰っていきました。

下の子を実家に預けたままだったので、旦那が電車で連れて帰ってくるのかな、と思っていましたが、お義母さんが車で送ってきてくれました。

 

今お義母さんと会いたかったから、それがすごく嬉しかった。

義母に、「瞬間瞬間、直感の通りに動けばいいんだよ。いまなにがしたい?子供の事も仕事の事も何にも気にしなくていいの。」

そう言われたけれど、なんにも思い浮かびませんでした。

 

「わたしもどん底の時期があって、自分なんかいる意味がないってずっと思いながら生きてた。60歳超えて気付いたんだから、〇〇ちゃんは大丈夫!」

そう言ってくれました。

 

「わたしはもし旦那と別れたとしても、お義母さんとはずっと繋がっていたい。」

本当にそう思っていて、それを話すと

「わたしは〇〇ちゃんのこと大好きだから、絶対いなくならないから大丈夫だよ。子供の事も、人の事も考えなくていい。自分の事を考えてればいいんだよ。」

そういって、抱きしめてくれました。

 

子供の頃からいままでに、足りなかったのはこれかなあ。

満たされている感覚。

 

両親はわたしのことをすごく大切にしてくれました。

宝物のように、壊れ物のように大事にしていたと思います。

だけど、ぎゅっと抱きしめられたことが少なかったのかな。

 

話をしたくなったら聞いてくれたけど、母親はいつも自分の部屋かキッチンにいて、壁一枚挟んだ隣の部屋で話をしてたかな。

父親と本気で話したことってなかったな。

まだ小さい頃に、寝る時に父親にくっついて寝ていたのが、覚えてる限りいちばん安心できた記憶。

 

子供達を愛しているなら、小さいうちにぎゅっと抱きしめてあげよう。

気持ちだけじゃなくて、行動で。

もう6歳と3歳。

もう遅いのかもしれないけど、まだ遅くないかもしれない。

自分が後悔しないように、子供が将来苦しくならないように

母親としてできること。

 

 

助けてほしいです。

今日は、寂しくなると連絡して、ダラダラと関係を続けてしまっていた人と会いました。

 

ホテルに行こうと言われたけど、もうこの関係をやめたい、やめるって決めた、と頑なに断りました。

 

私が望んでいるのは、気を遣わず飲める関係。

信頼できて、何でも話せる友達が欲しいだけ。

 

わたしは、それを、身体の関係でつなごうとしてた。

セックスがなくても飲めるかな、って聞いたら、うーん、と考えてた。

結局、相手に必要なのはそれだけなんだ。

わたしはいらない。

 

だけど、強がって、それならいいんだー、って帰ってきた。

だけど、寂しくて仕方がなかった。

遠回しにいらないって言われたのが、本当に悲しかった。

つい、寂しいけど、また飲もうね、って連絡してしまった。

だけど、いまも返事は来ない。

 

辛かったけど、わたしには旦那がいる、と気を取り直して帰った。

旦那は、わたしの事を理解してくれる。

どんなダメなところも、受け入れてくれる。

そう信じて帰りました。

一個、関係を切った。

旦那がいるからいいんだ。

 

だけど、帰って抱きつくと、

携帯見ながら

「俺、今日子供のことやらないから。」

って一言。

 

1時間で切り上げて帰って来たのに。

旦那に抱きしめて欲しかったのに。

 

思わず部屋のドアを叩いてしまった。

それに旦那がキレた。

髪を掴まれ、首を絞められ、明日離婚届持ってくるからサインしろと迫られた。

 

もう、わたしの味方はいなくなった。

本当に一人ぼっちになった。

誰にも、頼れない。

助けて欲しいといえば言うほど、人はわたしから離れていく。

何も言えない。

人形みたいに、本心を隠して、ニコニコしていないといけない。

セックスをせずに、人との関係を繋いでいかなければいけない。

家族も、いなくなるのかもしれない。

わたしは、すべての人に捨てられるんだ。

 

つらいです。

でも、死にたくないです。

別れるのも嫌です。

助けて欲しい。

セックスをしないで、わたしを愛してくれる人は、助けてくれる人は、いないのかな。

なんでこんなに孤独なんだろう。

誰に相談すればいいんだろう。

助けてほしい。