完璧主義は捨てた方がいい
7歳の小学1年生を育てていると、小さなことが気になります。
箸の持ち方や漢字の書き順、数字の形。
私は小さい頃、ノートの4分割されたマス目を見ると嬉しくて興奮するような性格だったので、お手本にならってお手本通りに漢字を書くことを純粋に楽しんでいました。
何ページも何ページも、ただただ「あ」を書き続けることが普通だと思ってたし、お手本に近い形になればなるほど喜びが増してやめられなくなるような子供でした。
だけど娘は、左の偏と右のつくりがバラバラになっていてもまったく気にしない性格。
漢字の書き順なんて、彼女にとってはあってないようなもの。
間違えたところを消しゴムで消しきれていなくても躊躇せずその上に文字を書きます。
これだけ性格が違うと、難しいんです。
箸の持ち方も、漢字の書き順も、数字の形も、「綺麗な方がいい」
それはそうに決まってます。
「できないよりは出来た方がいい」
だけど、「できないよりは出来た方がいい」が積み重なると、「完璧主義」になります。
娘に対して、私は諦め諦めやってるつもりだけど、娘からしたら、積み重なってるものがあるかもしれません。
だけど、基礎がちゃんとしてるからこそ、できることが増えるのも確かです。
可能性が広がります。
今の会社に入ってやっぱり勉強はできたほうがいいと思う気持ちが強くなりました。
祖母が教育熱心だったのも、孫たちの将来を思ってのことだったのかと思います。
持ってる武器が多いことは、自信になります。
そして、自信がある人は強いです。
いわゆる「いい大学」に入れなかった私が、もしいま自分の思う通りの人生を送れていたとしたら、その考えも違ったかもしれません。
学歴がなくてもこんなにしあわせに楽しく生きていけるんだという実感が持てていれば、子供に勉強することを求めなかったのかもしれません。
だけどこの考え方が負担になる子供もいると思います。
娘を見てると、字が下手でも、日記の文章が支離滅裂でも「ある程度」のところで教えるのを終わりにしたほうがいいのかもしれないとも思います。
本人がやりたくないこと=勉強を強制することが、娘にとって良い方向にいかない可能性なんて多分にあるのです。
私は自分の後悔を娘に押し付けているのだろうか?
別に「高学歴になれ」とは言っていません。
でも、「自分が高学歴だったらよかった」と思う自分の気持ちは確かにあって、その気持ちがもしかしたら娘に向いてしまってるのかもしれません。
「できないよりは出来たほうがいい」
この考え方は完璧主義の押し付けなんでしょうか?
自分の後悔を紐解いてみると、「勉強ができないことで好きなことができなかったこと」が後悔の原因になっています。
獣医になりたかったのに数学ができなくて諦めたことです。
この時から「勉強ができないと夢を諦めなきゃいけなくなる」という思い込みがはじまっているように思います。
子供の将来が本人の思い通りに進むようにサポートすることと、自分の後悔に対する反省とがごっちゃになってしまってるのかもしれません。
彼女の自由を奪いたくないけど、自由にさせすぎて、娘にとってあとあと後悔するような大きな欠陥を残してしまうことも怖い。
私がいちばん苦手な「グレーのまま進む」ことが、親として、娘にとって必要なことだと思うんだけど、ちょうどいいところの判断が難しくて、毎日悩んでいます。
勉強ができなかったことで後悔してるのも事実だけど、完璧主義を持って生きることでいまが苦しいのも事実。
両方とも自分の経験からきている教訓だけど、どっちが大変なのかは明らかです。
娘のためにも、自分のためにも、完璧主義はやめないといけないなーと思っています。