こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

最高の復讐とは、よく生きること

 

 

私の正義は弱い

たいして真面目に生きていないくせに、妙に正義感が強い。

世の中、コネとか枕とか嘘とか権力とかを利用して上にのし上がっていく人は案外多い。

その裏で、真面目にコツコツやっている人が潰れていったり、本当に努力している人が報われなかったりする。

その事実にどうしても憤りを抱いてしまう。

 

 

だけど、私が何かの拍子にぼそっとそんなことを言おうものなら、

それはすぐさま嫉妬と捉えられて、いつの間にか嫉妬女みたいなレッテルを貼られてしまう。

そんなデリケートさが非常に憂鬱なので、最近は公にそういう話はしなくなったし、

隠れキリシタンみたく、「女は身体と愛嬌を使って稼げばいいんじゃないの。」

なんて言ってる。

だけど内心、いつかヤバい男に引っかかって肉体も精神もボロボロにされてしまえばいいのに。と祈ってる。

 

きっと私のような考え方の人間はマイノリティで、

女は愛嬌。使えるものは使うべし。

金を持ってる男と寝るだけでお金がもらえるなんて賢いね。

そんなことができる人は素晴らしい、頭いいなんてもてはやす寛容な世の中であることを結構不思議に思う。

 

正義は役に立たない

私も欺いたり欺かれたり、人間の嫌な部分を人並みに経験してきて、

絶対にこれだけはやらないと決めていることがある。

それは、正義感の押し付け。

一般的な正しさ。学校で教えられるような正しさは役に立たない。

 

特にサラリーマンの世界では顕著で、

組織の中で主張される「一般的な正しさ」の空っぽ感は見てて虚しくなるほど。

 

正しさは正しさでしかない。

それ以上のものを生み出さない。

そして正義はいとも簡単に婉曲される。

だから正義は弱い。

 

いま置かれているポジションと状況でのベストな立ち回りを考えることも

ある種社会人の必須スキルだと思う。

 

正しい人を守るとか、努力している人を認めるとか、

人間の博愛主義を掲げていうならとても素晴らしいことだけど、

私は自分を守るために、あえてそういうことを考えないようにしている。

もちろん隠れキリシタンだから、

そういう人こそ成功して給料UPしてくれとこっそり祈っているけれど。

決して自分のそんな主張を表立ってしたりはしない。

 

最高の復讐とは、よく生きること

だけどやっぱりもやもやする。

いつか私の信じる神様が全世界に認められてほしいと思う。

 

世の中の理不尽さ、混沌とした世界に幅を利かせる権力・性・金に

太刀打ちできるわけがないという非力感と

私の主張をマジョリティにするために

発言力を手に入れないといけないという途方のなさに結構気持ちが落ちていた。

 

だけど、この言葉を聞いて、

勝手に背負ってきた正義の十字架を一旦おろすことができた。

だめなものを真っ向からだめと叫ぶ幼い正義感は虚しい。

その美しさは信じられないほど脆い。

 

成熟した大人として正義を主張する唯一の方法は、

「よく生きること」しかない。

 

自分の生き方が正しいとアピールするわけではなく、

自分の正しさを幹に、よく生きること。

それが最高の復讐になるのだ。

 

真っ向から向かい合わないけど真摯に向き合う。

その賢さこそ大人の立ち回りとしていちばんカッコイイんじゃないかな、なんて思ってる。

 

バーでウイスキー飲みたい。