文章が書けなくなった原因の分析と解決法
「自分は何者か」の定義がぶれてきて、文章が書けなくなった。
(かなり長文になってしまったのでお時間ある時によろしければ読んでください。)
- カテゴリーという概念に抵抗したい
- 経験を活かせないことへのフラストレーション
- 「やりたい・やりたくない」「できる・できない」の落としどころ
- 考え方にはグラデーションが必要
- 【まとめ】文章を書くためには「目的」が重要
わたしはこのブログの中で「現実の自分」をありのままに書いてきた。
治療の一環として書いているのだから、自分に正直な気持ちを書かないと良くなるものも良くならないだろうと思っていたし、この世界のどこかに、嘘偽りなく自分を表現できる場所がないと、ほんとにいつか自分のことがわかんなくなっちゃうんじゃないかという恐怖心もあった。
だけど、個人ブログではない別の媒体で文章を書くとき、正直さはさほど重要じゃなくなくなる。
大事なのは、多くの人に読んでもらうこと。
そのためには、他者の視点から見て納得感があるものを書かなきゃいけない。
いつか、自分の名前でものを書きたいと思ったとき、やっぱりそれは他人が見て嫌悪感を感じるものではだめだと思った。
毛色の違うこのブログと別の媒体とのあいだで、行ったり来たりしながら書くことを考えていたら、まず、「現実の自分」を表現することに、恥ずかしさやためらいを感じるようになった。
そして、「現実の自分」は、世間一般から見たら認められないものだから、外から見られる自分くらいは「理想の自分」でありたいと思うようになった。
でも、自分に嘘つくのも、偽りの自分を表現するのもなんだかどっちもずるい気がして、でもすでに今までの赤裸々な書き方にはためらいが出てきてしまってるから前のように書くのにも抵抗が出てきてしまったし、だんだんと「自分は何者なのか?」の問いがぐるぐるしてきて、結局何も書けなくなった。
カテゴリーという概念に抵抗したい
「タグ付け」必須な社会
世の中の人は、自分をカテゴリーのどこかに当てはめることを好んでする。
そして世の中もそれを歓迎している。
「カテゴリー」をわかりやすいものに言い換えたら「タグ付け」になるだろうか。
「タグ付け」はいまやSNSを中心に一般的なものになっていて、個人にも「タグ付け」する風潮が広まっている。
日本企業の終身雇用や定年退職制度は今後さらに衰退していく。
そうして会社という安定にぶら下がれなってくると、会社名ではない自分の強み・特徴・得意分野・好きなことを持ち、それらのカテゴリーの中で居場所を築いていくことが必要になってくる。
点数、偏差値、所属、趣味、特技に加えて病名まで。
一発で「自分が何者か」わかるキーワードを自分の名前にくっつけて、初めて個人の存在が認められるようになっているような気もする。
医者でもないのにやたらと病名や薬の種類に詳しい人がいるが、それも同じだ。
あらゆるものを細分化して、自分をそのなかのどれかに当てはめたいという気持ちのあらわれだ。
当てはめることで安心する。
ぼやけていた輪郭がはっきりするし、「自分は何者か」という問いにも答えられるようになる気がする。
付けられるタグを持たず、「自分は何者か」わからないでふわふわ漂っているような人は、ますます立場が弱くなる社会になってきた。
自分に「タグ付け」したくない理由
世の中の流れが上に書いたようなものであったとしても、わたしはそれらのタグを自分につけたくない。
その理由はいくつかある。
自分のこれまでの経験を振り返ってみると、毎日昼夜問わず悪夢と金縛りに襲われて、それでも起きられなかった本格的な「うつ」の時期があった。
育児が大変すぎて「育児ノイローゼ」だった時期もあった。
「境界性人格障害」の本を読めば、自分のことを書いているのかと思うくらい見事に当てはまるし、子供の頃を振り返ってみれば「自閉症」というカテゴリーに入っていたのかもしれない。
いまのメンタルヘルス界の流行りに乗っかれば「HSP」だって当てはまるだろう。
だけど、つけるなら自分にはもっと別の、なんかもっと明るくて一般的な、なにか自慢できるようなタグを付けたい。
「理想の自分」に見合うタグが欲しい。
だけどそうなると嘘っぽい。
嘘はつきたくない。
タグを付けずに自分を表現して存在価値を高めるにはどうしたらいい?
その質問に対して納得できる答えがまだ見つからないから、とりあえず「タグ付け」という行為には抵抗しておこうというのが一つだ。
病気を売り物にすることへの抵抗
もう一つ、タグ付けに抵抗する理由がある。
それは自分の経験にタグをつけた時、そこに「病名」が並ぶのが嫌だから。
生きていく上で「お金」は必要。
さっき言ったように、個人の権限が強くなってくる現代と未来において、会社に頼らずに「お金」を稼ぐには、個人の経験から派生するものを商品化する必要がある。
正直言ったら、このブログだって別の運用の仕方があるだろうと思ったりもする。
こんなダラダラと自分の内面を吐き出すんじゃなくて、「境界性パーソナリティ障害を治す方法」に特化してHOWTOだけを書いていれば、一部の層からは需要があるだろうし、PV数も今よりは伸びるんじゃないかな。
だけどそういうブログを見ると嫌な気持ちになる。
精神疾患に当てはまるであろうひとを餌にして、アフィリエイトで稼ぐようなブログを運営しているひとを、わたしはたぶん認められないし好きになれない。
だから、自分はやりたくない。
永遠に「境界性人格障害」のタグがついて回る恐怖
もう一つ、タグを消したり差し替えたりすることにフレキシブルなイメージがないというのがある。
わたしは「境界性人格障害の人」のまま生きていくつもりはない。
だけど、一旦ついてしまったイメージは消えづらい。
だから、「自分のイメージ」にしたくないものは表に出さず隠しておいた方がいいのではないかと思ったりする。
いつか生きづらさとうまく折り合いをつけられるようになったとき、いまと正反対の納得できる性格の自分になったとき、「付けられるタグ」と「付けたいタグ」が一致したときに、ようやく自分にタグ付けする気になるんだろうな、と思っていたりもする。
経験を活かせないことへのフラストレーション
経験は価値であり、資産になる。
だけどわたしは上に書いた理由で経験を価値にできていない。
だけど、「自分は何者か」をこれだけ長い間自分に問い続けてきて、それを何にも活かせていないことにはフラストレーションを感じる。
わたしは多くの人とは違う特性を持って生まれたかもしれない。
だとしたら、それを同じような経験をしている誰かのために活用するべきなんじゃないかと思うこともある。
だけど、自分の課題はまだ解決してない。
解決策が見つかってないから、「過去の経験から学んだこと」として情報提供できる状態にない。
「成功体験」として紹介できるものもない。
だからいまのわたしに「活かせる経験」なんてない。
これは完璧主義かもしれない。
「タグ付けしたくない」というこだわりと、「自分は完全に回復していなきゃいけない」という完璧主義が相まって、自分のことに納得できていないのに、人様にこうやるといいよ、なんてアドバイスするのは恥ずかしいと思う気持ちが強い。
たまに、自分の調子が良いときにいただく読者の方からのメールで、こんなことで困っている・悩んでいるというお話を聞くと、こうした方がいいですよ。こういうのもありますよ。わたしはこうしましたよ。とか、さも経験者のように語って返信したりしてしまうのだけど、調子がガクンと下がったときものすごく恥ずかしくなって後悔する。
こんなわたしからのアドバイスなんて求めてないだろうに、勝手に上から目線でものを言ってしまった自分が恥ずかしい。
たまたま熱量を発揮してしまったわたしのメールを読んで、メールをくれた相手が冷めた目でスマホの画面を見つめている映像が何回もあたまをよぎる。
恥ずかしさで消えてしまいたくなる。
こんな性格だから、いまの経験を前向きなものに変換するのが難しい。
そうなると、経験を活かせないフラストレーションは増していって、最終、自分の生きてきた29年間ってやっぱり無意味だったじゃん・・・ってところに落ち着く。
「やりたい・やりたくない」「できる・できない」の落としどころ
自分の経験を活かしたい思いと、自分の経験は恥ずかしいから人に言いたくない思いの両方がある。
生きづらさを解消するために奮闘している自分の体験をつらつらと書くことはできるけど、治ってないから誰かのためになるような有効な解決法を紹介することはできない。
相反する気持ちのあいだで落としどころを見つけたら楽になるのかな。
考え方にはグラデーションが必要
「落としどころ」という言葉を使ったけど、それよりも「曖昧さ」「グラデーション」のほうがしっくりくる。
いま世の中の流れ的に、個人はハッキリとした個性を持って、とがってないと埋もれるよ、みたいのがある気がしてる。
だけど本来人間は、もっと曖昧なものであるべきでしょう?
組織の話をすると「アメーバ」とか「ティール」が最新!といわれているけど、個人もそうじゃないかと思ってる。
わたしはこれ!って決めつけるより、生活や気持ちの変化に伴って形を変え続けていく方が自然じゃないかと。
生き方も考え方も、もっとグラデーションであるべきだと思う。
そうしたら他人に対する受容の気持ちも起きやすくなって、もっといい世の中になりそうじゃん、ってここはかなり適当に言ってる。
自分の現状の話に戻ると、生き方や考え方はもっとグラデーションであるべきという理想があるんだけど、世の中のタグ付けの風潮についていかなきゃかもと焦る気持ち、そして自分の白黒思考がじゃまして、葛藤している。
【まとめ】文章を書くためには「目的」が重要
「文章が書けなくなった」問題の原因は「自分が何者か」わからなくなったから、と最初に書いたけど、アイデンティティと文章を繋げようとするからおかしくなるんだということに気づいた。
「文章が書けなくなった」問題を離れたところから俯瞰して見ると、文章を書く時には「目的」があって、「アイデンティティ」と「文章」はその目的を達成するための「手段」だ。
つまり、文章を書くためには「目的を明確にしておこう」というのがわたしなりの結論だ。
人間は個人としてそこにいるだけで良いのだから、タグを使って「自分が何者か」を明文化しておくのって、本質的ではないなと思っている。
でも、世の中には就職活動とか、面接とか、キャリア構築とか、仕事とか「わたしはこうしたい」を人に伝えないといけない場面が多々あるのは事実。
知らない人に自分を知ってもらう意味で「タグ付け」は有効な手段だと思う。
だけど、繰り返しになるが、「タグ付け」はあくまでも手段なのだ。
手段は「目的」を達成するためにつかう道具なのに、「タグ付けどうしよう」と「タグをつけること」が目的になってくるからこんがらがる。
わたしは最近、行動の動機となる「目的」の部分が明確になった。
「目的」というのは、「解決したい社会課題」とか「仕事をする理由」とかに言い換えられるかもしれない。それは、「本当に必要なひとに、本当に必要なものを届ける」ということだ。(これだけだとかなり漠然としてるのでどっかでブログに書きたいなとは思う。)
その「目的」を達成するための手段として「文章」や「タグ付け」というものがあると考えたら、上に書いたような抵抗感がかなり薄れることがわかった。
なので、いったんこれで解決ということにした。
「目的」なんてない。簡単に見つからない。と思うかもしれない。
でも人生の目的って、意外と身近にある。
ずっと課題感を感じていることや、どうしても気になっちゃうニュース、今までの人生でめちゃくちゃ楽しかったこととか、生きる「目的」はよく考えたらそこらへんに転がってるものかもしれないな、と最近思う。
そして目的を目の前に立てておくと、目先のこだわりや社会の風潮に揺らぐことも減ってくるんじゃないかと思った。
揺らいでも戻るところが明確になっているのは安心だし。
ということで、またちょこちょこ書いていけたらと思っています。