「隠し事」は信頼関係を破綻させる
自分の経験からひとつ確実に言えることがあります。
「隠し事」は信頼関係を破綻させる
特に近しい人との関係の中で「隠し事」をするのは大きなリスクを伴います。
最初にそれを感じたのは、大学受験を間近に控えた高校3年生の時でした。
裕福だと思っていたのは幻想
私の実家は昔、裕福でした。
でもいまはもうその頃の面影はなく、実家に帰ると少し、心に影が差すような感覚になります。
実家の経済状況が悪化したのは、両親のやりくりの問題もあるのかもしれないけど、
わたしは自分のせいだと思っています。
家計が傾いてきたのはたぶん、わたしが高校生の頃でした。
その頃親に「お金がない」と言われたことは一度もなく、わたしが欲しいものを言えば、なんでも買ってもらえていました。
わたしは家が裕福だと思っていたから、
かなりわがままを言っていたし、それでも問題ないと思っていました。
成績が伸びなくなり、気持ちもくすぶっていたのに、通信教材や短期講習に行きたがり、親はわたしが相談すると行かせてくれました。
だけどある日、夜中に目が覚めて両親のいる部屋の近くを通った時、深刻そうにお金の話をする両親がいました。
わたしに気付いて二人が気まずそうに作り笑いを見せた瞬間のことを、いまでも鮮明に思い出します。
「お金ないの?」
そう聞くと、
「ちょっとね。」
それだけ答えて、それ以上はなにも教えてもらえませんでした。
それ以降わたしは、使っていない電気をこまめに消したり、歯磨きの時の水を節約したり、子供ながらに思いつく節約術を徹底しました。
金銭感覚のちぐはぐさ
通信教材や短期講座でたくさんお金を使ってもらったにも関わらず、結局わたしは三流私立大学に進学しました。
いままでお金に対してちゃんと考えた経験がなかったから、大学受験で上京する時に良いホテルを予約してしまったりして、ホテルの良質なサービスを受けながら、心のなかでは「貧乏」の二文字が揺れていて、その経済的な部分のちぐはぐさに苦しみました。
節約志向に振り切ることも、高級志向のまま突っ走ることも、どちらもうまくできない。
それはいまもそうで、ある部分では異様に節約志向になるくせに、別のある部分では節約していることを恥じて見栄を張るなど、お金についてのちぐはぐな感情はコントロールするのが難しい事柄の一つです。
親への申し訳なさ
実家は家自体が古いこともあり、エアコンがありません。
夏に帰省する時は暑くて倒れそうになります。
だけど「エアコン買ったら?」と提案すると、「そうだね。」と返ってくるだけで、実際には買わない。
今日思い切って「エアコン買わないのって金銭的な問題だけ?他に理由があるの?」と聞くと、母は「お金の問題」と答えました。
わたしが好き勝手言ってお金を使わせたから、こんなに貧乏になってしまったんだ。
かわいそう。
親のことをそう思います。
かと言って、今のわたしに実家のエアコンを買ってあげる金銭的な余裕があるわけでもなく、自分が姑息なすねかじりだったこと、使ってもらったお金を活かせず大成できていないことを心底悔やみます。
実家に帰ると、いつもその申し訳なさが私の後ろをずるずるとついて回り、暗澹たる気持ちになります。
【まとめ】その「隠し事」は誰のため?
だけど一方で、家計の実情を隠し続けてきた両親を恨む気持ちもあります。
わたしは、自分の家庭が裕福だと思っていたから、好き勝手は要求ばかりしていた。
だけどもし、家庭の経済状況をちゃんと話してくれていたら、そんなことはしなかったと思います。
両親はわたしをだましていた。
それによってわたしは罪悪感を抱え続けることになった。
そう考えると、両親を恨む気持ちが出てきてしまいます。
冒頭に書いたように、「隠し事」は信頼関係を破綻させる危険性をはらむのです。
きっと両親はわたしのためを思って言わなかったんでしょう。
わたしに不自由な思いをさせたくないという優しさだったということはわかっているつもりです。
だけど、子どもの立場からすると、そんな優しさはいらない。
子どもだって家庭の一員なんです。
家計の足しになるくらいのお金を稼ぐことはできないかもしれないけど、バイト代を少し家に入れることや節約、お金がかかる選択に慎重になることだってできたはず。
どうして協力させてくれなかったの?
隠し事をされていたのを恨む気持ち以上に、その悲しさのほうが大きく、辛いです。
この経験から、「隠し事」は信頼関係を破綻させるという教訓を得て、わたしは自分の子どもにはあらゆることを正直に話そうと意識しています。
それが正解なのかはわからないし、正直さが人を傷つける可能性も多分にあります。
だけど、「隠し事」が誰かのためになる可能性は、わたしはゼロじゃないかと思っています。