「責任を取らなくても逃げ切れる」という甘い考え
問題の原因が100パーセント自分にあるとき、その責任は自分一人で取らないといけません。
あたりまえのことだけど、わたしはいままでそれができていませんでした。
自分の間違いを認めることがあったとしても、全責任を自分一人で負わなければならない状況に置かれたことはなく、「ここはわたしが悪いけど、そっちが悪い部分もあるよね」と思っていました。
だから、言い訳をしたり、相手のミスを指摘して、責任を相手とはんぶんこするのがわたしの中であたりまえになっていたように思います。
わたしが声を大にして「わたしは生きづらくて大変だからどうにかしたい!」と言えるのは、その原因を生い立ちや生育環境のせいにしているからです。
もし生きづらさの原因がすべて自分の行動にあるのだとしたら、そうは言えない。
「親のせいにしたくない」「環境のせいにしたくない」と口では言っておきながら、生きづらさの責任を小分けにして誰かに押し付けていくことで、自分の負担を軽くしていたんだと思います。
わたしは、生きづらさという自分に課された課題に自分一人で向き合って戦っているということを、信じて疑いませんでした。
だから、その部分で自分で自分を認めているようなところがあったし、自分はほんとは結構強いんじゃないかと思う瞬間さえありました。
だけどその裏には「自分一人が頑張っても、このひとが責任を取ってくれないから治らないんだよ」と言える逃げ道があって、わたしの場合、それは生い立ちだったり、家庭環境だったり、親の性格だったりするのでした。
その逃げ道があったから、生きづらさが改善しなくても言い訳ができるし、治らないのは自分のせいじゃないと言える。
そういうずるさが、無意識のうちにありました。
さらに、わたしが相手に責任を押し付けてきた部分は、自分が絶対に謝りたくないところだったり、絶対に変えたくないところだったりしました。
その部分が正しいからとか、自分の大事にしている考え方だからというわけではありません。
その部分を指摘されて治さないといけなくなったときに、変化に伴う自己負担が大きい部分だからです。
だから、言い訳と粗探しと責任転嫁を駆使して「絶対に謝りたくないこと」を死守してきたのだと思います。
だけど今回、わたしがいままで死守してきた根っこの部分を掴まれて、そこをどうにかしないといけない状況になりました。
いままでみたいに人のせいにもできないし、言い訳が通用しない。
あーもう耐えられないと思っても、親やいじめてきたクラスメイト、理不尽な上司のせいにもできず、その耐えられない気持ちをただ受け入れるしかない。
悪いと思っているのであれば謝ればいいことなんだけど、意地で謝れない。
論理破綻した言い訳で逃げようとする。
いままでの悪い部分の総集編です。
そんなことをしているので、ふと意地を張るのをやめて謝る気になったときにはすでに相手の受け入れ体制がなくなっていて、謝っても許してもらえない。
それに対しておかしいとまたわめき散らす。
さらに関係が悪化する。
そんな状況におちいっています。
過去を後悔する気持ちはあります。
だけど、過去にとらわれて未来を捨てることもできません。
自分の気持ちを保つため、子供との生活を健全に維持するため、良い環境を探そうとするのは悪いことではないと思います。
だけど、未来を見ている自分に罪悪感を感じる。
過去を背負って、日陰に隠れて粛々と反省しながら生きる道を選択すべきなのかもしれない、と前向きな気持ちになっている自分を引きずり下ろす自分もいます。
いままで、自分の行動の責任を取ることから逃げてきた代償だと思います。