こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

ひとりで生きることと人と一緒に生きることは共存する

わたしはいままで、ひとりで強く生きられるようになりたいと願ってきました。

 

自分の持ち物を増やして足場を強固にして拡大させていけば、その願いは達成されるものと思っていましたし、そうすることで幸せになれると信じて疑いませんでした。

 

他人を利用して幸せになる

わたしにとって、家族や友達といった他人を自分の人生に組み込む目的は、慢性的な寂しさを埋めるため、自分の価値を確かめるためでした。

でも、何をしたって寂しさが紛れることも揺るがない価値を感じることもなく、人間関係が組み立てては壊れる建造物のように思えて、先の見えない途方もない道を歩いているような気持ちになることも多くありました。

 

また、ひとりで生きていくという固い意思を持つ一方で、居場所が欲しい、真の友達が欲しいと望みあがくことは、自分の意思と相反するもののように思われてそれらの願望の置き場が見つからず、その狭間でいつも葛藤していました。

 

わたしは、家庭を作ること、夫婦関係を維持すること、子供を育てること、友情を築くことを、失ったパズルのピースをひとつひとつ埋めていく作業の一環のように捉えていて、人生を計画書に則って粛々と進めていくことこそ正だと思っていました。

 

つまり、ひとりで生きていくために他人を利用する

それがわたしにとってのデフォルトになりつつあったのかもしれません。

 

コミュニティから外れて生きることはできない

 

自分の治癒の過程で、参加者ではなく患者となると、コミュニティから切り離され、内部の自己感覚から疎外されてしまう。

私たちの文化は、個性に注目するように教えるが、より深い次元では、私たちは個別の生物として存在することはほとんどない。私たちの脳は、私たちが集団の成員として機能するのを助けるようにできている。

ー私たちのエネルギーのほとんどは、他者と結びつくことに捧げられている。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 )
 

 

はっと気づかされました。

人間としての自律を取り戻し苦しみから解放されるためには自分ひとりを内省して自分の内部だけを変えようとしていては意味がないこと。

 

わたしが感じている「生きづらさ」は、人間という集団の一員として、わたしが正常に機能することを妨げている自分の考え方や態度を変えていくことで解消されうること。

 

つまり、「他人と一緒に生きる」ために自分の思考をどう修正すればよいのかという視点で治療を進めることが、とても重要なんだということ。

 

人間は本来社会的な生き物です。

でも、精神疾患の治療過程は、自分の内に向かって内省を繰り返すものが多く、薬は症状を抑え込む補助的なもの。

「社会の中の一員としての治療」に、本人が目を向ける機会は少ないように思います。

 

オランダの精神科医でトラウマ研究の第一人者ヴァン・デア・コーク氏の著書を読んで、治療過程にはコミュニティが重要なのだと学びました。

それは人間の生物学的本質からくるものです。

 

【人間性の典型的な4つの特徴】

  1. 私たちは互いをはなはだしく害する可能性があるが、それを埋め合わせるに足るほどの、互いを癒す能力も持っている。健康を回復するためには、人間関係やコミュニティを回復することが重要だ。
  2. 言語は、自分の体験を伝えたり、知っていることを定義するのを助けたり、共通の意義を見つけたりすることで、私たちが自分自身を変える力を与えてくれる。
  3. 私たちには、呼吸したり、動いたり、触れたりといった基本的活動を通して、体と脳の、いわゆる不随意機能(自分の意思ではコントロールできない機能)の一部を含む、自分自身の生理的作用を調節する能力がある。
  4. 私たちは社会的状況を変え、大人も子供も安全に感じられ、成功できる環境を生み出すことができる。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法

 

人間関係は、生きることは、もっと血の通ったものでした。

自分というものの存在感覚が薄いわたしは、自分の人生の舵取りは自分でしなければいけないという使命を全うすることに意識を集中させようとしていることが多く、他人を自分の人生の深い部分に迎え入れることは、わたしが選択権を持って取捨選択しているというどこか上から目線の感覚でいました。

 

でも、本来いまある人間関係、またこれまでまるでもののように拾ったり捨てたりしてきた数々の人間関係はわたしが社会やコミュニティの一員だと感じ安心を得るためにどれも大切に向き合うべきもので、うまく扱えなくなったら捨てるという私のやり方は完全に間違いであったと気付きました。

 

わたしは、プログラムを組んで機械的に日常の課題をこなすことが生きることだと思い込んでいて、自分の感情とか人の感情をないがしろにしてきました。

人を利用してきました。

 

プログラム遂行という意味合いで人生を進んでいると、予定調和が崩れたり、他人が思い通りの言動を取ってくれないことに対する怒り・悲しみは、それがどんなに小さな出来事であっても、計画どおりに組み立ててきた大事なものを一瞬で破壊されたような衝撃的な出来事になり得ます。

 

さらに、人生をプログラムとして生きているくせに感覚的な人間なので、人がつながったり離れたりすることにはとても敏感で、人間関係における浮き沈みに対しては感情の面でも大きく揺さぶられ、小さな出来事をトラウマとして記録して毎日それらを積み重ねながら生きてきたような気がします。

 

社会の一員としての感覚が希薄。

それが自分の本当の課題であったように思います。

 

探し物は自分の中にある

中身のない自分が、まだ持っていないものを探し回って獲得していくことこそがカウンセリングの目的であって、その第一段階となる、過去を掘り起こし自分の感情に気付くことは、探すべきものが何かを見つけていく作業

そう思っていました。

 

いまの自分は無価値で、空っぽ。

自分を構成するものは、世界一周しても見つけきれないんじゃないかと途方に暮れていました。

 

だけど、私という人間がここに存在して28年間生きてきた中で、自分の得意なことや好きなもの、興味があること、良いところ、大事にしてるものや考え、やりたいこと、魅力、価値、いまはまだ見つけられていないけど、それらはもうすでに持っているのかもしれません。

 

そう思うと、治療に先が見える気がしました。

 

社会の中で生きていく

ひとりで生きることと、周りの人たちと一緒に生きることは、どちらかを選ぶというものではなく、共存するものです。

 

境界性人格障害についての書籍を読むと、「自他の境界線」というような言い回しがよく出てきます。

アドラー心理学でも「課題の分離」という考え方があります。

 

私はそれらのことから、自己と他者をきっぱり区別すること、つまり他人のことには介入せず、介入させず、自分の人生だけに集中して生きるという考え方が治癒につながるのだと考えていました。

 

でもその理解は間違えで、他人と関わらずに生きていくことや何のコミュニティにも所属しないこと、孤立することは治療の妨げになるのでした。

 

自分の求めていた「人との繋がり」の本当の意味は、互いに愛情を贈与し合うことだということを理解しました。

 

ただ根拠もなく前向きになろうとするだけでは変えられないことがあります。

人間には脳があり、身体があり、心があります。

その仕組みを学ぶことで気付くことがあります。

研究者でもない専門家でもない自分がそれらを学ぼうとすることは時間と精神力を要しますが、必要不可欠なことです。

 

知識を得ることと同時に自分を内省すること、それに加えて周囲に目を向けて自分から愛情を持つこと。

それが必要なのだと気付きました。

 

わたしが自閉症という特性を持って生まれたことも、結婚して子供二人を育てる人生を選択したことも、それらを乗り越える力があるからなのかもしれません。

 

本を読む、好奇心を持つ、自由に生きる。

いままでわたしの本当の姿と向き合って直視してくれなかった両親に対する恨みにとらわれてきたのですが、両親がわたしに対して深い愛情を持っていてくれたことは事実で、彼らも愛情の伝え方に苦悩してきたのかもしれません。

 

ただ、他の家族や親とは違う方法で、両親は私のそれらの能力を伸ばしてくれました。

そんな両親へ感謝することもできるようになりました。

 

それと同時に、自分の感じてきたことを教訓に、自分の子供達と真摯に向き合って彼女たちに愛情を注ぎ続けること、主体性や意思を尊重すること、何よりも、伸び伸びと感情を抑え込む必要のない家庭環境をつくってあげること。

それが私のやるべきことでそのためにもまず自分の感情の表出方法を学んでいくことが必要なんだと決意をした2019年の始まりでした。

 

2018年は、いまのカウンセラーさんと出会って、夫婦関係を壊して構築し直すきっかけがありました。

 

カウンセラーさんは私を褒めてくれます。存在価値と能力を認めてくれます。そして、間違いを間違いだと指摘してくれます。叱ってくれます。

カウンセリングに通い始めた当初は、それらを単なる好き嫌いだ、相手にとっても仕事なんだと切り捨ててしまいたくなることもありました。

指摘され叱られることに慣れていなかったわたしは受け入れることができなくて、カウンセラーを敵だと認定して逃げようとしてきました。

 

夫婦関係もそうで、結婚生活と家庭はメンタルの安定基盤だとしか思っておらず、その上で刹那的だけども温かい偽物の愛情を受けながらひとりで生きることがわたしの人生のベストだと思ってきました。

 

でも、カウンセラーさんも夫も、わたしに真の愛情を持って接してくれています。

 

誰もわたしに愛情を注いでくれないと孤独を感じていたけど、もしかしたら親や家族や友人はすでに愛情を差し伸べてくれていて、ただわたしがその愛情の受け取り方を知らなかった、間違えていたということがあります。

 

こうやって文章にすると、ただ愛情の重要性と人間関係の真意・価値を伝えたいだけなのに、どうしても固く分析的になってしまって、そういう部分がわたしのコミュニケーションの苦手さにつながっているのだなと反省するんですけど、この緊張感も緩和していけたらいいなと思っています。

 

感情的で攻撃的な記事ばかり書いてしまったブログで、見にきてくださる方を嫌な気持ちにさせてしまうことも多々あったと思います。

それでも懲りずに読み続けてくださった皆様には感謝でいっぱいです。

2019年もどうぞよろしくお願いいたします。