人間関係は捨てるためにあるという誤解
わたしはいつも人目を気にしていて、無駄に気を遣いがち。
人の感情や発言に敏感。
ちょっとしたことで落ち込むし、傷つきます。
他人の目線の奥にある本音を読み取ろうとするのが癖になっています。
誰かに嫌われるのも、仲間はずれにされるのも怖くて仕方がありません。
だから、嫌われないようにニコニコして人に合わせる「気遣いの人」。
私は自分のことをそう思っていました。
だけど、その自己認知は驚くほど間違えていて、
「嫌い・やりたくない・悲しい・悔しい」など負の感情を顔や態度に出すことを制御する能力が、わたしには完全に欠如しているようなのでした。
「嫌い」を全面に出す私
実は、私自身はそのことをあんまり気にしたことがなくて、いますぐこの場から逃げ出したいくらい嫌だと感じている時でも、
「すごく嫌だしやりたくないけど、あなたの話はしっかり聞いてますし、まあ我慢してやりますよ〜」
くらいの態度は出せていると思っていました。
でも、職場の新しい上司に、「業務が立て込むと話しかけるなオーラがすごくて、ミーティング中でもそんな感じになるから困る。」と言われ、
二世帯を買おうかという話をしている義母と物件の内覧に行った時、「古いしリフォーム代高そうだしここは買わない。」と思ったので、内覧中は別の物件をスマホで探してて、帰ってから「うちはさっきのとこ買わないです」って言っただけなのに、お義母さんが旦那に「私、こあらちゃんに嫌われたかもしれない」っていう電話をかけていた、ということをあとになって旦那に聞きました。
いつかの飲み会では、同じ場にいた人に、「あなたの拒否感の出し方は結構酷い。自分の評価を下げるからやめた方が良いよ。」と言われたこともあります。
今朝旦那にそのことを話したら、
「そういう時、自分で思ってる以上にすごい顔してるよ。嫌、が全面に出てるし、どうしたの?って思わせるような態度ではある。
スーパーコンピュータとして情報処理だけをして生きるなら効率よくていいかもしれないけど、そのやり方だとそれ以上の仕事はもらえないよ。」
と言われました。
逃走癖
私、自分のこと、コミュニケーション能力高いと思ってたけど、そういう話を聞くと全くそんなことなさそう。
言われてみれば、「嫌なことだからやりたくない」という気持ちでいっぱいになると、いつもその場から逃げ出していました。
「この人とは合わない」と決めたら徹底的に目を合わせずに会話を避ける。
「やりたいことじゃない。絶対にやりたくない。」と思いながらミーティングに出ている時、意識して感情をどっかに飛ばしている。
高校時代は体育祭の綱引きの途中、急にばからしく思えてきて逃走したこともありました。
人間関係なんて今だけのもの。
いつか終わる。
もし限界が来たなら、学校も会社も辞めればいい。
そう思っているから、我慢してまで良好な人間関係をつくる必要はないと思っていました。
だから、長期的な人間関係の構築ができません。
それでも人と繋がりたい
勝手に不機嫌になって、相手が驚いて距離を置いてしまうくらい態度や表情に出してしまっている。
それなのにそんな自分の態度に気付かず、さらに悪化させるような態度をとり続ける。
挙句の果てには、自分が発端のくせに「相手に嫌われている」「避けられている」と思い込み、さらに距離を置く。
それがいままでのわたしの人との関わり方のデフォルトなのかもしれません。
今現在も職場でそんな感じになりかけていますが、今の仕事はもう少し続けたいから、このままじゃだめだな、とは思っています。
だけど、上司や同僚と話したくない、目を合わせたくないの気持ちが先行して能面みたいになっているし、それでも仲良くしたい気持ちがあるから、うまくいかないことを相手や周囲に責任転嫁するし、雪だるま方式でどんどん敵を作っている感じです。いま。
今までも、人間関係の限界を迎えて、幾度となく環境を変えてきました。
このやり方しかやったことがなくて、他のパターンがわかりませんでした。
でも、人間関係は捨てるためにあるものではありません。
捨てられないという重さが私の意識を苦しめますが、
人間関係は大切に育むべきものなのだということに、28才にして気がつきました。