幼い頃の不認証体験
境界性パーソナリティ障害発症の原因は、その人の過去に必ずあります。
幼い頃の、心的外傷体験(心が傷付いた体験)や不認証体験(自分を認めてもらえなかった体験)により、その人は潜在的な脆さを抱えています。
過去の心の傷や痛みを蘇らせる出来事が起こった時、過去の辛い状況が再現されることで、境界性パーソナリティ障害は発症します。
きっかけとなる出来事は、なんらかの離別体験、喪失体験、見捨てられ体験です。例えば、
- 親との死別、生き別れ
- 彼との離別+中絶
- 誰かと親密な関係になること自体
また、両親が揃っていて一見愛情深く見えても、丁寧に過去をたどると必ずその人が構ってもらえず寂しい思いをした経験があるはずです。
わたしの両親は、私のことをとても大事に育ててくれました。
ただひとつ鮮明に思い出すのは、母方の母(わたしにとって祖母)の家に行ったときの出来事です。
あまりにも鮮明に思い出すので毎回そうだったのかもしれないけれど、たった一回のことだったのかもしれない。
祖母の家には、祖母、叔母、叔父、いとこ(女・私より5歳くらい歳上)、いとこ(男・2歳くらい上)がいました。
叔母の家に行く時は、父、母、私、弟の4人で行きました。
小さい頃から人見知りで無口だった私に比べて、弟はいつもニコニコしてて無邪気。顔も女の子のように可愛らしく、子供の私ですら可愛いなあと思うような子でした。
夜は、居間でテレビ(名探偵コナン)を見ながら全員で食卓を囲むのが常。
居間の隣には、襖を挟んでもう一部屋ありましたが、その部屋はだだっ広くて、いつも電気が消えていました。弟の出産で私が祖母の家に預けられた時、祖母と二人で過ごした部屋でした。
夜、救急車のサイレンを聞きながら、寝ている祖母の横をこっそり抜け出し、カーテンの隙間から真っ暗な外を見ていたのを思い出します。
暗くて、部屋の奥にある掛け軸が怖くて、はじめて母と離れた、怖くて寂しかった記憶です。
高台にある家から見える外の街灯が小さく光っている事で、母とつながっているような気がしました。
みんなで食卓を囲む際、話題に上がるのはいとこか弟の話でした。
いとこ二人は頭が良く、勉強がとても良くできました。上の姉は自分に自信があり自己主張も強いタイプ。下の弟は、大人しかったけれど、姉以上に学力があったので、叔母や祖母にとっては自慢の子供、孫だったのでしょう。
私の弟は、先述した通り愛嬌がある上に一番年下だったので、いつも話題の中心にいて、可愛がられていました。
一方で、わたしはお茶のおかわりが欲しいのにそれすらも言い出せず、いつも喉の渇きに耐えていました。人の話が全然入って来なくて、ずっと、おかわりくださいっていつ言ったらいいんだろう、と考えていました。
そんな私は周りから見るととても奇妙な子だったんだと思います。
私の話題になると空気がピリッと張りつめるのを子供ながらに感じていました。
それは罪悪感と恥ずかしさを伴うものでした。
私がいつも悲しい記憶として思い出すのは、みんなが居間に集まって名探偵コナンを見ている時に、隣の暗い部屋でひとりで体育座りをしてみんなの話を聞いている自分の映像です。
談笑している声、弟を可愛がる声、いとこを称賛する声。
コナンのストーリーを先読みするいとこ。よく思いつくねえ、やっぱり頭がいいねえ、と褒める祖母。
それらを聞きながら暗い部屋でうずくまる私。
ひとりで暗い部屋にいたら、誰かが心配して迎えにきてくれるかもしれない。どうしたの?って声をかけてくれるかもしれない。誰かが私のことを気にしてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いていた。当時の私にとっては決死の行動でした。
だけど、誰も私の話題を出さない。両親も呼んでくれない。
お腹が空いたのにご飯を食べられない。喉が乾くけど何も飲めない。
いないものとして扱われている自分。私がこの場に居なくても誰も困らない。
今までの人生で、何度も何度も思い出した映像です。この体験が今の私に大きく影響を与えているのは間違いないと思います。
中学校に入学して以降、私は祖母の家に行ったことがありません。
その頃の私にとって、祖母や叔母は完全に敵でした。
結婚した時。子供を産んだ時。
27歳の今に至る間に、何度か行くべき機会がありましたが、どうしても行くことができませんでした。
私の子供は、一度だけ両親が連れて見せに行ったことがありますが、私は行きませんでした。
祖母の家に行くことは私にとって、恐怖と寂しさでしかありません。そしてそれは、いつしか怒りと嫌悪感に変わっていました。
私は、あの人たちに嫌われている。あの人たちは私の敵だ。幼い頃の刷り込みは強力なものです。
たぶんわたしは、祖母の葬式にも出ないと思います。