なぜ私には、女の友達がいないのか
これは私にとって永遠の悩み。
中学は、共学かつ多分にもれず異性を意識しすぎる年代であったので、人並みに女の子と一緒にいた。
男の子と一緒にいるだけで周りから「そういう目」で見られるのだったし、そんなことでいじめられたりするのも面倒だった。
だから普通に女友達と一緒にいたわけだけど、その中でも長く続く友達とか、互いの家に泊まりに行ってまで一緒にいたい友達はいなかったし、よく考えたらプリクラを撮りにいくような友達すらいなかった。
高校は女子校だったのだけど、女子校は女子校で異性に向けるのとは違う「自我」が充満している感じがあった。しかも面倒なことに高校生の女子の自我はなんとなく湿っぽい絡まった髪の毛みたいな感じがした。
私はどちらかというとそういう人間の内面から滲み出るものの類に弱くて、その湿った自我の集まりに耐えられなくなって、学校に行けなくなった。
自我は自我でも、男性のそれはもっと簡潔で清潔だった。
だから、男友達と遊ぶのはとても楽だった。
その頃からだんだん人の目線が気にならなくなり(っていうのもよく考えると、女子校の生徒なのに男友達と遊んでる自分、みたいなそれこそ自我がなせる技だったのかもしれないけど、ここでは考えるのをやめておく。)、とりあえず、私が本音で話せるのは女性じゃなくて男性なのだな、と気付いたのが高校2年の時だった。
「甘え」が許されるか許されないか
その頃から今まで、私が仲良くなるのは大抵男の人だったのだけど、その理由を考えてみるとそれはたぶん、恋愛感情とは違う「甘え」が許されたからなのかな、と思う。
私以外の女性がどうであるかは知らないけれど、女の人ってどこか相手のことを値踏みし続けているようなところがあって、常に緊張して対峙していないといけない。
なぜ緊張が解けないかというと、私の中の「弱い部分」「人とは違う部分」を女性に見せてはいけない(と思っている)からだ。
女の人にそういう部分を見せると、軽蔑されるか距離を置かれるかする。
彼女たちは、私のメンタルが強弱のバーのどこらへんで止まるのかを判断したいのだし、彼女たちの中にあるどこかのカテゴリに私を分類したいのだ。
私の中の「弱い部分」「人とは違う部分」が、本当に軽蔑されるべきものなのかそうでないかはここでは関係ない。
とにかく女性は分類がしたいのだと思う。
自分の中のカテゴリに分けて、自分と合う合わないを判断するのだ。
だから私は同性には弱みを晒せない。
※でも事実、私が見せる弱みに対して、女性から欲しい答えをもらえたことは一度もなかったし、頼んでもいない説教とか同情とか、そんなのいらなかった。
女性から新しい発見とか価値観とかも感じられることがほとんどなかったように思う。
感情のぶつかりあいが嫌
私は非常にめんどくさくて、自分は思い切り感情で動く生き物のくせして、相手には徹底的にロジックを求めるところがある。
だから、私の感情の動向に対して感情をぶつけてこられると、うわ、と思ってしまうのだ。
女の人は、私が油断して自分の悩みを話すと、すぐに自分の似たような話にこじつけて自分語りをしてくるし、大丈夫?と無駄に心配してくる。
なんか、そういうのが嫌だ。
カウンセリングもそうだけど、私は、私の話したことに対してちゃんと分析して返してくれる人が好きだ。
分析とまで言わなくても、とりあえず同情と共感はいらないから、意見と評価が聞きたい。
言いたいことを言える関係
まあ男性の中にも、感情に任せて動くような女性的な人はいて、その人に対してはもちろん、うわ、と思うんだけど、男性相手だとその、うわ、を顔に出すことができたし、あんたの話じゃなくてこっちの話だよ、と話をこっちに戻すことができた。
それはなぜかというと、そんなことで相手が怒ったり傷ついたりしないと信じているからだ。相手が男だったら。
だけど女の人にはそれが怖くてできなかった。いつだって私のことを値踏みしている女性にそんなこと言ったらどれだけ自分の価値を下げられるのだろうと思うとできなかった。
また、相手を傷つける可能性も孕んでいると思うと、それはさらに自己開示を踏みとどまるきっかけになった。
素でいられるかいられないか
なんでだろう。
男性は、例えば私がめんどくさいを態度に出したところで私のことを悪く言ったりしないし、むしろ、あ、ごめん、とか言ってもらえることすらある。
つまりは、甘えられた。
自分が本当に秘めている話が話せるのに加えて、会話の流れとか内容とかを自分の裁量で決められることが多かった。
だから自然と、本音を話せる友達になるのは男性が多かった。
そう思うと、私は自分の思い通りに動くような相手と仲良くなりたいと思っているんだろうか?
相手をコントロールする快感
他人をコントロールすることは悪だとなんとなくはわかっているのだけど、やっぱり人をコントロールできるという全能感みたいなものは快感と同義であった。
というのも、私は幼い頃から親や親戚、身近にいる大人たちを思い通りに動かすことができなかったからだ。
それは、私に子供らしい可愛さがなかったことに端を発するのだと思うけど、そんな中でもやっぱり曲がりなりにも大人からの愛情は欲していて、自分なりに注目されたくてやっていた行動もあった。
だけどそれが功を奏したことは一度もなく、「愛情をもらう」ことに関しての成功体験を経験することなく大人になってしまった。
女の子の友達に愛情を求めても返してもらえることはなくて、そこを埋めてくれるのが男友達だった。
私のそういった影の部分を感じ取って足りない部分に入り込んでくれるのはどうしても異性になってしまった。
女友達は楽しい部分だけを共有する関係であって、男友達は私の影の部分を面白がってくれた。
それが男女の性的な関係を求めてのものだったかどうかはわからないけど、幼い頃に埋められなかった喪失感を埋めてもらえた経験は、幼い頃にできなかった愛情に関する成功体験に近いものであった。
無償の愛をくれるのは誰?
どんなテーマであっても、結局たどり着くのは「愛情が欲しい」という結論だ。
幼い頃に、親や親戚、幼稚園の先生、近所の大人たちから冷たい目で見られていた事実は、私の中にある種のトラウマとして残っていて、その空白感を埋めるためだけに28年間生きてきたような気がする。
私の過去のあらゆる行動は、愛情や注目を得たいがためのものであったと思うし、それ(に似たものを)を手っ取り早くもらえる男友達との関係は私に安心をくれた。
私が友達に求めるものは愛情だった。一般的に同性の友人に求めるのは共感であったり仲間意識であったりするのだと思うけど、そんなものははなから求めていなかった。
私は友達に愛情を求めた。
だから私には女の友達ができなくて、男友達ばかりができたのだと思う。
そこが性的関係に発展してしまうとぷつんと切れてしまうので、とにかく友人関係が不安定だったのだけど、男の人は彼氏でなくても私を面白がってくれたり可愛がったりしてくれた。刹那的でも愛情をもらえる瞬間があった。
だから男友達とは繋がっていられた。
友達に求めるものを変える
こうやって考えてみると、私が友達に求めるものが間違っているのかもしれない。
そこが合わないから友達ができないのかもしれない。
本来愛情は家族や親からもらうものであって友達に求めるものじゃない。
じゃあ友達って何?
友達に求めていいものってなんなんだろう。
カウンセリングのテーマが増えていく。