こあらの念仏日記

境界性パーソナリティー障害のことと明日の生き方を考えるブログ

文章が書けなくなった原因の分析と解決法

「自分は何者か」の定義がぶれてきて、文章が書けなくなった。

(かなり長文になってしまったのでお時間ある時によろしければ読んでください。)

 

 

わたしはこのブログの中で「現実の自分」をありのままに書いてきた。

治療の一環として書いているのだから、自分に正直な気持ちを書かないと良くなるものも良くならないだろうと思っていたし、この世界のどこかに、嘘偽りなく自分を表現できる場所がないと、ほんとにいつか自分のことがわかんなくなっちゃうんじゃないかという恐怖心もあった。

 

だけど、個人ブログではない別の媒体で文章を書くとき、正直さはさほど重要じゃなくなくなる。

大事なのは、多くの人に読んでもらうこと。

そのためには、他者の視点から見て納得感があるものを書かなきゃいけない。

いつか、自分の名前でものを書きたいと思ったとき、やっぱりそれは他人が見て嫌悪感を感じるものではだめだと思った。

 

毛色の違うこのブログと別の媒体とのあいだで、行ったり来たりしながら書くことを考えていたら、まず、「現実の自分」を表現することに、恥ずかしさやためらいを感じるようになった。

そして、「現実の自分」は、世間一般から見たら認められないものだから、外から見られる自分くらいは「理想の自分」でありたいと思うようになった。 

 

でも、自分に嘘つくのも、偽りの自分を表現するのもなんだかどっちもずるい気がして、でもすでに今までの赤裸々な書き方にはためらいが出てきてしまってるから前のように書くのにも抵抗が出てきてしまったし、だんだんと「自分は何者なのか?」の問いがぐるぐるしてきて、結局何も書けなくなった。

 

カテゴリーという概念に抵抗したい

「タグ付け」必須な社会

世の中の人は、自分をカテゴリーのどこかに当てはめることを好んでする。

そして世の中もそれを歓迎している。

 

「カテゴリー」をわかりやすいものに言い換えたら「タグ付け」になるだろうか。

「タグ付け」はいまやSNSを中心に一般的なものになっていて、個人にも「タグ付け」する風潮が広まっている。

 

日本企業の終身雇用や定年退職制度は今後さらに衰退していく。

そうして会社という安定にぶら下がれなってくると、会社名ではない自分の強み・特徴・得意分野・好きなことを持ち、それらのカテゴリーの中で居場所を築いていくことが必要になってくる。

 

点数、偏差値、所属、趣味、特技に加えて病名まで。

一発で「自分が何者か」わかるキーワードを自分の名前にくっつけて、初めて個人の存在が認められるようになっているような気もする。

 

医者でもないのにやたらと病名や薬の種類に詳しい人がいるが、それも同じだ。

あらゆるものを細分化して、自分をそのなかのどれかに当てはめたいという気持ちのあらわれだ。

 

当てはめることで安心する。

ぼやけていた輪郭がはっきりするし、「自分は何者か」という問いにも答えられるようになる気がする。

 

付けられるタグを持たず、「自分は何者か」わからないでふわふわ漂っているような人は、ますます立場が弱くなる社会になってきた。

 

自分に「タグ付け」したくない理由 

世の中の流れが上に書いたようなものであったとしても、わたしはそれらのタグを自分につけたくない。

その理由はいくつかある。

 

自分のこれまでの経験を振り返ってみると、毎日昼夜問わず悪夢と金縛りに襲われて、それでも起きられなかった本格的な「うつ」の時期があった。

育児が大変すぎて「育児ノイローゼ」だった時期もあった。

「境界性人格障害」の本を読めば、自分のことを書いているのかと思うくらい見事に当てはまるし、子供の頃を振り返ってみれば「自閉症」というカテゴリーに入っていたのかもしれない。

いまのメンタルヘルス界の流行りに乗っかれば「HSP」だって当てはまるだろう。

 

だけど、つけるなら自分にはもっと別の、なんかもっと明るくて一般的な、なにか自慢できるようなタグを付けたい。

「理想の自分」に見合うタグが欲しい。 

だけどそうなると嘘っぽい。

嘘はつきたくない。

 

タグを付けずに自分を表現して存在価値を高めるにはどうしたらいい?

その質問に対して納得できる答えがまだ見つからないから、とりあえず「タグ付け」という行為には抵抗しておこうというのが一つだ。

 

病気を売り物にすることへの抵抗

 もう一つ、タグ付けに抵抗する理由がある。

それは自分の経験にタグをつけた時、そこに「病名」が並ぶのが嫌だから。

 

生きていく上で「お金」は必要。

さっき言ったように、個人の権限が強くなってくる現代と未来において、会社に頼らずに「お金」を稼ぐには、個人の経験から派生するものを商品化する必要がある。

 

正直言ったら、このブログだって別の運用の仕方があるだろうと思ったりもする。

こんなダラダラと自分の内面を吐き出すんじゃなくて、「境界性パーソナリティ障害を治す方法」に特化してHOWTOだけを書いていれば、一部の層からは需要があるだろうし、PV数も今よりは伸びるんじゃないかな。

 

だけどそういうブログを見ると嫌な気持ちになる。

精神疾患に当てはまるであろうひとを餌にして、アフィリエイトで稼ぐようなブログを運営しているひとを、わたしはたぶん認められないし好きになれない。

だから、自分はやりたくない。

 

永遠に「境界性人格障害」のタグがついて回る恐怖

もう一つ、タグを消したり差し替えたりすることにフレキシブルなイメージがないというのがある。

 

わたしは「境界性人格障害の人」のまま生きていくつもりはない。

だけど、一旦ついてしまったイメージは消えづらい。

 

だから、「自分のイメージ」にしたくないものは表に出さず隠しておいた方がいいのではないかと思ったりする。

 

いつか生きづらさとうまく折り合いをつけられるようになったとき、いまと正反対の納得できる性格の自分になったとき、「付けられるタグ」と「付けたいタグ」が一致したときに、ようやく自分にタグ付けする気になるんだろうな、と思っていたりもする。

 

経験を活かせないことへのフラストレーション

経験は価値であり、資産になる。

だけどわたしは上に書いた理由で経験を価値にできていない。

 

だけど、「自分は何者か」をこれだけ長い間自分に問い続けてきて、それを何にも活かせていないことにはフラストレーションを感じる。

 

わたしは多くの人とは違う特性を持って生まれたかもしれない。

だとしたら、それを同じような経験をしている誰かのために活用するべきなんじゃないかと思うこともある。

 

だけど、自分の課題はまだ解決してない。

解決策が見つかってないから、「過去の経験から学んだこと」として情報提供できる状態にない。

「成功体験」として紹介できるものもない。

だからいまのわたしに「活かせる経験」なんてない。

 

これは完璧主義かもしれない。

「タグ付けしたくない」というこだわりと、「自分は完全に回復していなきゃいけない」という完璧主義が相まって、自分のことに納得できていないのに、人様にこうやるといいよ、なんてアドバイスするのは恥ずかしいと思う気持ちが強い。

 

たまに、自分の調子が良いときにいただく読者の方からのメールで、こんなことで困っている・悩んでいるというお話を聞くと、こうした方がいいですよ。こういうのもありますよ。わたしはこうしましたよ。とか、さも経験者のように語って返信したりしてしまうのだけど、調子がガクンと下がったときものすごく恥ずかしくなって後悔する。

 

こんなわたしからのアドバイスなんて求めてないだろうに、勝手に上から目線でものを言ってしまった自分が恥ずかしい。

たまたま熱量を発揮してしまったわたしのメールを読んで、メールをくれた相手が冷めた目でスマホの画面を見つめている映像が何回もあたまをよぎる。

恥ずかしさで消えてしまいたくなる。

 

こんな性格だから、いまの経験を前向きなものに変換するのが難しい。

そうなると、経験を活かせないフラストレーションは増していって、最終、自分の生きてきた29年間ってやっぱり無意味だったじゃん・・・ってところに落ち着く。

 

「やりたい・やりたくない」「できる・できない」の落としどころ

 

自分の経験を活かしたい思いと、自分の経験は恥ずかしいから人に言いたくない思いの両方がある。

生きづらさを解消するために奮闘している自分の体験をつらつらと書くことはできるけど、治ってないから誰かのためになるような有効な解決法を紹介することはできない。

 

相反する気持ちのあいだで落としどころを見つけたら楽になるのかな。

 

考え方にはグラデーションが必要

「落としどころ」という言葉を使ったけど、それよりも「曖昧さ」「グラデーション」のほうがしっくりくる。

 

いま世の中の流れ的に、個人はハッキリとした個性を持って、とがってないと埋もれるよ、みたいのがある気がしてる。

だけど本来人間は、もっと曖昧なものであるべきでしょう?

 

組織の話をすると「アメーバ」とか「ティール」が最新!といわれているけど、個人もそうじゃないかと思ってる。

わたしはこれ!って決めつけるより、生活や気持ちの変化に伴って形を変え続けていく方が自然じゃないかと。

 

生き方も考え方も、もっとグラデーションであるべきだと思う。

そうしたら他人に対する受容の気持ちも起きやすくなって、もっといい世の中になりそうじゃん、ってここはかなり適当に言ってる。

 

自分の現状の話に戻ると、生き方や考え方はもっとグラデーションであるべきという理想があるんだけど、世の中のタグ付けの風潮についていかなきゃかもと焦る気持ち、そして自分の白黒思考がじゃまして、葛藤している。

 

【まとめ】文章を書くためには「目的」が重要

「文章が書けなくなった」問題の原因は「自分が何者か」わからなくなったから、と最初に書いたけど、アイデンティティと文章を繋げようとするからおかしくなるんだということに気づいた。

 

「文章が書けなくなった」問題を離れたところから俯瞰して見ると、文章を書く時には「目的」があって、「アイデンティティ」と「文章」はその目的を達成するための「手段」だ。

 

つまり、文章を書くためには「目的を明確にしておこう」というのがわたしなりの結論だ。

 

人間は個人としてそこにいるだけで良いのだから、タグを使って「自分が何者か」を明文化しておくのって、本質的ではないなと思っている。

でも、世の中には就職活動とか、面接とか、キャリア構築とか、仕事とか「わたしはこうしたい」を人に伝えないといけない場面が多々あるのは事実。

知らない人に自分を知ってもらう意味で「タグ付け」は有効な手段だと思う。

 

だけど、繰り返しになるが、「タグ付け」はあくまでも手段なのだ。

手段は「目的」を達成するためにつかう道具なのに、「タグ付けどうしよう」と「タグをつけること」が目的になってくるからこんがらがる。

 

わたしは最近、行動の動機となる「目的」の部分が明確になった。

「目的」というのは、「解決したい社会課題」とか「仕事をする理由」とかに言い換えられるかもしれない。それは、「本当に必要なひとに、本当に必要なものを届ける」ということだ。(これだけだとかなり漠然としてるのでどっかでブログに書きたいなとは思う。)

 

その「目的」を達成するための手段として「文章」や「タグ付け」というものがあると考えたら、上に書いたような抵抗感がかなり薄れることがわかった。

 

なので、いったんこれで解決ということにした。

 

「目的」なんてない。簡単に見つからない。と思うかもしれない。

でも人生の目的って、意外と身近にある。

ずっと課題感を感じていることや、どうしても気になっちゃうニュース、今までの人生でめちゃくちゃ楽しかったこととか、生きる「目的」はよく考えたらそこらへんに転がってるものかもしれないな、と最近思う。

 

そして目的を目の前に立てておくと、目先のこだわりや社会の風潮に揺らぐことも減ってくるんじゃないかと思った。

揺らいでも戻るところが明確になっているのは安心だし。

 

ということで、またちょこちょこ書いていけたらと思っています。

 

 

 

 

カウンセリング10回目⑤(2019/2/13)

↓①はこちら

www.koara2015.com

 

↓②はこちら

www.koara2015.com

 

↓③はこちら

www.koara2015.com

 

↓④はこちら

www.koara2015.com

 

 

C:一気に進んじゃった気がする。あなたは力があるね。

どうしてこの話になったのかもう一回まとめていいかな。

認知行動療法の考え方を知っても、行動が変えられないということだったね。

 

私:はい。

人の考え方とか、本に書いてある解決法に、納得していてもどこかで抵抗する気持ちがあります。

その抵抗の根底にあるものってなんだろうって考えたときに、小学校時代の母親との関係がありました。

母親の「私は嫌だ」という言葉に従うことを優先して、本当にしたいことができなかった。

 

それがいまだに続いてます。

本当は、みんなが楽しいときに楽しいって騒ぎたいけどできない。

人の意見を受け入れられない。

そして人と距離ができてしまうという意味で、その体験がいまに繋がっています。

 

 C:あなたは、私が認知行動療法の話を振ったとき、それに対して抵抗する自分に気付いた。

そしてそれを私にちゃんと返してくれました。

そこからあなたは、現在のあなたに大きく影響している小学校時代の体験に自分でたどり着いた。

 

あ、紹介したい本が浮かんだんだけど、もういいかな。

 

私:あ、いや、読みたいです。

 

C:あ、読みたい?

面白いね。

あなたのそういう面白いところとか、好奇心を、もっと生かせるようになるといいね。

これは母親との関係についての本です。インナーマザーと愛着障害についての本。

 

 

 

私:なんか・・・こういう本読むのちょっと怖いというかちょっと嫌です・・・

 

C:うん、あのね、読めないかもしれない。

読めなかったら読めなかったでいいんです。

どういう気持ちになったかを教えてくださると、それが今後のためになります。

 

いまどういう気持ちかな?

私は今日、あなたの本当にコアなところをノックした感じがしてますよ。

 

私:そうですね。

お母さんのことって、触れたいけど触れちゃダメ、触れなきゃだけど触れられない、みたいなセンシティブなところにありました。

 

C:そうね。

あなたの家庭では、特に大きい問題もなく、虐待があったわけでもなく、むしろよくしてもらったから余計だと思うの。

虐待がはっきりしてる人のほうが言いやすい。

 

私:良く思うのが、「自分がお母さんを幸せにしなきゃいけない」っていうことです。

自分はこうやって、お金を使ってカウンセリングに通わせてもらって、生きづらさを解消しようっていう努力をしてる。

だけどお母さんは、いまもなにかに苦しんでたり、困ってることがあるかもしれない。

そう思うと、自分のいまの行動に対しても罪悪感を感じます。

 

C:うん。

だけど、お母さんとあなたの関係は切り離していいです。

あなたの幸せを考えること。そして、あなたがいまのご家族と幸せに暮らせるようになっていくこと。

それがあなたの課題なので、それを中心に考えることは罪ではないのね。

 

お母さんになにかのサポートが必要なのであれば、お母さんがご自分の意思で選択して、カウンセリングや他の解決法につながるはずです。

 

 

 

 

長くなりましたが、この日のカウンセリングについては以上です。

 

母親のことを悪く言うのが嫌でした。

私が子供のころ、母親は確かにたくさんのストレスを抱えていたように思います。

義母との関係は最悪だったし、自分の親兄弟ともうまが合わず、友達もいなくて、父親ともいつも互いに気を使い合っているような印象を受けました。

 

そんななかで、母親にもっとしあわせになってほしいと願っていたのは確かです。

お母さんには好きなことをして、ストレスなく、楽しそうにしていてほしい。

「そのために自分がこうしなきゃいけない」とまでは、当時思っていなかったけど、根底にそういう思いがあったのかもしれないというのは新たな気付きでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

カウンセリング10回目④(2019/2/13)

↓①はこちら

www.koara2015.com

 

↓②はこちら

www.koara2015.com

 

↓③はこちら

www.koara2015.com

 

 

C:納得できないと進めないよね。

 

私:そうですね。

たとえばネットや本を見ていると、障害が明らかになったり、症状に病名がつくことで、安心しているようなひとがいます。

そういうひとたちはたいがい、その障害や病気の「診断名」を素直に受け入れて納得しています。

そして、その「診断名」の裏付けになるような自身の言動や過去の履歴をたどって、さらにその診断を強固にしようとするんです。

 

そういう素直なひとは、ネットに書かれているような改善策を試して、効果を感じられるんだと思うんです。

薬を飲めば、ちゃんと効果を感じられるんだと思うんです。

 

でも私はひねくれてるのか、「●●病」みたいな枠に自分を当てはめることにすごく抵抗があります。

「●●病の対処法」みたいな記事を見ると、一瞬でシャッターを下ろしてしまいます。

 

C:うーん。逆にどうしたいんだろうね。

 

私:はい、どうしたらいいんだろうと思って。

素直に受け入れて実行できる人がうらやましくて、嫉妬を感じてしまうこともあります。

 

C:何がストッパーになってるんだろうね。

そこを考えてみようか。

 

私:そうですね・・・

 

小学生くらいのころって、「この時期はみんなこうでなきゃいけない」ということが結構明確にあったような気がします。

「みんながこれを好きでいなきゃいけない」とか、「5年生になったら子供たちだけでどこかに遊びに行かなきゃいけない」とか、そういう雰囲気とか流行りがありました。

でもうちは母親が厳しくて、それを許してもらえなかった。

 

「みんなやってるから自分もしていい?」と聞くと「私は嫌だと思ってる」と母親に言われることが多くありました。

「ゲームセンターに友達と行く」「プリクラを撮る」「カラオケに行く」とかです。

 

母親に「私は嫌だ」と言われるとどうしてもできなくて、友達から誘われても泣きながら断る、みたいなことがよくありました。

 

C:そうですか。そのとき、なんでできなかったと思う?

お母様が「私は嫌だ」と言ったとき、嫌だと思っているのはお母様ですよね?

「お母さんが嫌でも私はやりたい」という選択肢もありますよね?

 

私:そうですね。

でも、そうも思わなかった。

いや、思ったのかもしれないけど、「母親が嫌なことはやっちゃいけない」と思ってた。だからできなかった。

 

C:そうね、子供ってそうなの。

どうしてできなかったと思う?

 

私:嫌われたくない。

 

C:そうです。お母さんに嫌われたくないから、あなたはお母さんの嫌がることをしなかった。

それが、いまの人間関係でも残っちゃってるの。

 

当時あなたは子供で、もちろんお母さんが好きっていうのもあるけど、お母さんに嫌われたら食べていけなくなる。

生きていけなくなるから、子供にとって、お母さんに好かれるか嫌われるかっていうのは死活問題なのね。

お母さんが気に入らないことをしてしまったことで見捨てられるってなったら、それはもう脅威でしかない。

 

だけどいまあなたは大人です。

ご主人やお子さんとの距離の方が近くて、そちらの生活のほうが大事でしょう。

 

私:・・・そうですね。

 

C:だけどお母様に言われた言葉がぐるぐるしてて、その経験が処理できていないから、ほかの人の言葉も自分を批判している言葉に変換しちゃう。

 

病名なんてどうでもいいんですよ。

ただあなたが生きやすくなればいいんです。

私は前に、便宜上、特性についての一般的な診断名を使いましたけど、それは気にしないで。

 

私:本当はみんながワイワイしてるとこに入れたら楽しいし、みんなが良いというものを試したいって心の奥では思っているんです。

でも、どうしても、どうがんばっても、それに巻き込まれることができなくて、すごく抵抗してしまうんです。

だから人と距離ができてしまったり、意識的に距離を置いたりしてしまう。

 

C:その抵抗は、あなたが生まれたときから持っていたものじゃないの。

元々はあなたの持ちものじゃないの。

お母様の「私は嫌」に応えるためにあなたがこしらえたものです。

本当はもう手放していいものなんですよ。

 

だって、いま持っていてもしょうがなくない?

あなたがそう思えたときが、改善に進み始めるときですね。

 

だからって簡単には手放せないはず。

深くこびりついちゃってるあなたの思考の癖だからね。

だけど、どっちの方向に向かって行ったらいいのかは描けるはずね。

 

私:あのー・・・お母さんをかわいそうっていう気持ちはどうしたらいいんでしょう。

「本当はこうしたい」「本当はこう思ってる」っていう自分の気持ちを感じられるようにはなってきました。行動には移せてないんだけど。

でも、私のいままでの価値観の裏に母親の刷り込みがあったと思うと、お母さんを見捨てるような気持ちになっちゃって。

 

C:罪悪感みたいなものを感じる?

 

私:はい。

 

C:いいところにきてるわよ、あなた。

すごくいいところにきてる。

罪悪感を感じるのは苦しいね。

だけど、あなたのような症状を持っている方はみんな通る道なのね。

 

だから大丈夫といったら失礼だけど、方向性としてはまったく間違ってない。

この罪悪感は大きくて、長いあいだ持ち抱えなきゃいけなくなると思うんだけど、

結論としては、罪悪感持たなくていい。

でも、罪悪感をもってしまう自分をOKだと思ってください。

 

お母様が幸せだったらあなたはそう思わなくて済んだの。

お母様を幸せにしなきゃという気持ちが、小さい子供なのにあなたはあったんじゃないかな。

だから、お母様の意に反することをすることでこれ以上お母様を悲しませたくない、不幸にしたくないという気持ち。

自分のやりたいことを実行しちゃったらお母様が悲しむから実行できないという気持ち。

 

だけど、あなたはいま大人よ。

あなたが選んで、あなたのしたいようにしていいの。

 

早く結婚したからやりたいことができないんじゃない。

いまからでもできる。

だけどそこでも、やりたいことを自分で選ぶとお母様を裏切ることになる、というような罪の意識から、踏みとどまっちゃうんじゃないかな。

 

お母様にはそういうつもりないんだけど、これは一種の洗脳なのね。

「私は嫌」ということで、「私の思い通りにしなさい」というメッセージをあなたが受け取ってしまっているので。

 

そういうメッセージを消去していったほうが、生きやすくなる。

あなたはお母様のために生きてるんじゃないのよね。

だけど、お母様のタブーにいまだに支配されている。

そこからの脱却が、今後の目標になっていくかな。

 

それができればご主人との関係もさらに良くなるし、

お子さんに対する思いも変わってくる。

 

 

 

⑤に続きます。長くなりましたが、最後です。

www.koara2015.com

 

カウンセリング10回目③(2019/2/13)

↓①はこちら

www.koara2015.com

 

↓②はこちら

www.koara2015.com

 

 

C:あのね、ほかの考え方はない?

 

上司が同僚のAさんにそう言ってることをたまたま聞いたとしても、あなたには関係ないことじゃない?

彼らの対話と自分を結び付けすぎ。

ここを切り離さないとやっかいなことになっていっちゃうよね。

あなたとはまったく無関係の出来事なんです、これ。


あなたはなんでも自分のことと結びつけちゃう癖があるの。

いまこの瞬間、世界中のあらゆるところで誰かと誰かが対話していて、それは聞こえてないだけなのね。

もし全部が聞こえてしまったらあなたはどんどんもぐっていってしまうよね。


カウンセリングルームはこうやって静かで、ほかの音が聞こえない環境に1対1でいるからいいけど、電車の中にいても会社にいても、見えるものや聞こえるものを全部自分と接続してしまうとしんどくなるの。

 

私だったらね、さっきの上司とAさんの会話を聞いてしまったとき「あの上司、人のこと使うのうまいな」と思う。

Aさんをおだてて仕事をしてもらおうとしているんだな、と思う。


あとは、もしかしたらAさんと上司との間で過去にトラブルがあって、Aさんのことをここで褒めておこうと思って言ってるかもしれない。

 

そんな可能性も考えられる。

あなたから切り離された世界で起きていることはわからない世界なんですよ。

 

その世界で起きてることにまで責任を負おうとすると、人生が非常に複雑になってしまいます。


あなたはあなたのことに特化していくようにすると、すごく素直に、自分を高めるとか、自分がハッピーになることに専念できるようになる。


あなたには雑音が多いんだよね。
その雑音を「自分も褒めてもらえるようにがんばろう」とか、いい風に使えるんだったら、良い雑音の拾い方ね。
そうでないんだったら、もし他人同士の会話が聞こえてしまうことがあっても意識の中でバウンダリーを引く。

 

たとえばで話しちゃったけど「こういう捉え方もあるよ」という話を聞いてどう思う?

 

私:ほかの考え方を思いつかないっていうのもあるんですけど、そういう考え方があると知ったところで実行できる気がしない・・・
やっぱりマイナスに考えちゃう癖があって、それが良くないこともわかってるんだけど、どうしても意識改革できなくて、行動も変わらない。
そうなると「やっぱり自分にはできない」「わかってても変えられない」と思うことが最近とても多いです。

 

C:いま私が言ったことは、認知行動療法の口頭でのやり方です。
同じ状況でも違う見方ができる。できなくても、いろんな状況設定で練習を繰り返していく。

そうすると、だんだん多面的な見方があるということがインプットされていきます。

 

自分一人の中で、一つの考え方で堂々巡りしていくとき、その中には「状況」と「あなた」しかないですよね。
でも、同じ状況を他者がどのように捉えるかを知ることによって、多面的な見方があることを知る。

「多面的な見方をしていかないと自分を追い詰めることになる」ということに気付いていただくっていうのが、認知行動療法の第一段階です。

 

そしておっしゃる通り、知ったところで自分はそのようには考えられないっていうのは最初ある。あっていいの。


グループでこういうことをやることがありますが、10人いたら10人違うことを言います。

最初はそれを、へーって思いながら聞いていればいい。
「私にはできない」「そういう風に思えって言われても無理だな」って思いながらもその場にいるように努力すると、そのうち誰かの発言の中で、「ちょっとそういう風に思えるかも」「そういう考え方はできるかも」と思えるようになってきます。
そうやって自分の幅を広げていくのね。

 

ひとりで考えているうちは、たいていパターン化していきます。
ある状況に対してこう反応する、というパターン。
あなたの場合だと、資料提出のときに「何が言いたいかわからない」と言われるイメージがわく。
人が褒められているのを聞くと、「自分はそれほどじゃない」と言われているように受け取る。
だいたいのパターンが見えてきます。


そういう風に思ってしまう自分を否定しなくていいので、他の見方もあるということがあなたの頭の中に少しでも割り込んでくれると、一つの考え方にとらわれなくて済むようになる。

 

一つの考え方にとらわれちゃう傾向があるじゃない?

その脳のぐるぐる思考で。
それがずーっと頭の中でぐるぐる回っちゃうのがあなたの特性で、もともとそういう思考をしやすい人は不安も感じやすいので、自分を追い詰めていく一方になってしまうのね。

 

認知行動療法的なやり方をしていると徐々に、自分のこだわっていた考え方以外にも、ほかの考え方があることを認められるようになっていく。

 

今日ね、ふたつ紹介したい本があります。
これはご紹介したかな、認知行動療法の本。

 

 

 

私:はい、教えていただきました。

読んだけど、あまりできてないです。
買って、2回くらいワークシートをやってみたんですけど、そのあとできてないです。

 

C:そう。

これワークシート書くじゃない?

それと同じことをいま口頭でやったんだけど、ある状況があって、それについてあなたがどう感じ、どう考え、あなたの自動思考を特定して、他の捉え方を考えて、と、この作業を丁寧にやっていくと、一個の考え方じゃなく世の中を多面的に捉えられるようになる。

 

もうひとつは、栄養の話なのね。

 

 

 


書いたのは、藤川徳美先生っていう精神科医です。


ドクターも心理士も、栄養学は学んでいません。
なので、この人は独自で栄養学を学んだ人で、食事療法と、食事で補えない分をサプリで補完するということを提唱しています。

 

鉄不足とかたんぱく質不足は、ネガティブ思考やうつ、パニックを引き起こすということがわかってきているようなんですね。

 

 


この本のあとに、「うつ消しごはん」という本が出ていて、そのほうが読みやすいんだけど、
あなた結構難しい本読めるので、あとエビデンスを重視するからね。

最初のほうも読めると思うんだけど、読みやすさはこっちの方があるかな。

 

本当はね、本よりも実行してほしいのよ。
行動に移すことができない知識は意味ないので。
知識を得たあと、どうするかがいちばん大事だと思っていただきたい。

 

いま紹介した2冊は、この人がどういう思いでこの本を書いているのかということもわかるので、ためになるかもしれない。

 

もう一個、うつ消しごはんの後に漫画も入ってるのが出てて、それも読みやすいです。

 

 

合う合わないは自分でご判断してくださいね。

 

栄養が足りてないと、認知行動療法もお薬もなかなか入りにくいらしいです。
せっかくカウンセリング通われているのであれば、栄養面も意識するといいかもしれないと思うのでご紹介しますね。

 

 

↓④はこちらです

www.koara2015.com

 

↓⑤はこちらです(最後です)

www.koara2015.com

 

カウンセリング10回目②(2019/2/13)

 ①はこちらです。

www.koara2015.com

 

私:信頼して頼れる人ができたっていうことで、さっき「基盤がしっかりした」と言ったんですけど、それは家庭の話で、私個人はいまもずっと不安定な気がします。

人の行動とか言葉の端々が気になって、勝手に嫌われてると感じて距離を置いてしまうことが、職場や子供関係のつながりの中でいまだに日常的にあります。

 

C:具体的にいうと、たとえばこの2週間で一番引っかかりを持っていることは何かありますか?

 

私:仕事の話なんですけど、上司と面談したときに「いつまでもそんな仕事をやっていないで」という言い方をされました。

たぶん意味合いとしては、「いつまでもそんな簡単なルーティン仕事をやってないで、もっと難しい責任のある仕事をできるようになろうね。もっと上の段階を目指そうね。」という前向きな意味で言ってくれたんだと思うんですけど、どうしても今の自分を否定されているように感じてしまって。

 

そのあと、ある原稿を書いて、それを5人くらいの確認に回さないといけないんですけど、怖くてなかなか渡せずにいます。

原稿はほとんどできてるのに「明日読んだらまた気になることが出てくるかもしれない」と思って、ほかの人に見せるのが怖いです。

いま自分の書いたものを否定されたら、上司に言われた「いつまでもそんな仕事をやってないで」が強められてさらに自信をなくす気がするんです。

だから、せめて自分の中だけでも完璧な状態にしてから出したいと思って。

原稿を添付したメールまで作っても、送信できずに何度も下書きに戻してしまったり。

 

C:その、メールを送れないときって、何か頭をよぎる言葉があると思うんだけど、どんな言葉かな?

そのシーンになって考えてみて。

 

私:「何が言いたいかわからない」ですかね。

 

C:それはいつ言われた言葉?

 

私:言われた言葉ではないかもしれないです。

自分で自分に対して思っていることです。


自分の書いたものを後から読み返して、要点が飛び飛びだったり、まとまりがなかったり「何が言いたいかわからない」と思うことが日常的にあって。

 

C:自分の原稿を自分で読んでいる段階ね。

実際に言われたわけではないのね。

 

私:そうですね。あんまり大きい原稿を人に見せる機会がないこともあって、実際に言われたことはないです。

一回、その上司に自分の書いたものを見せたことがあって、そのときは「よく書けてる」と言われたんですけど、それはあんまり受け入れられなくて。

 

C:あのね、あなたが提出してくれた生活歴、素晴らしかった。

すごくよく伝わった。文章力ありますよ。

だけど、あなた自身が自分のことを認められないのよね。外見とおんなじで。

見た目もすごくかわいい素敵な人なのに、私がそう伝えたって受け取ってくださらないじゃない?

そうすると寂しくなっちゃいます。

 

あなた人のことを褒めたことない?

 

私:あります。

 

C:その人が、いえいえーって謙遜するくらいだったらいいけど、絶対違う!と強く否定されたら寂しくならない?

 

私:・・・そうですね。

 

C:そこで関係に亀裂が入るとかまではいかないかもしれないけど、やっぱり褒めことばは受け取ってくれたほうが嬉しくないですか?

 

あなたは褒めことばは受け取らなくて、悪いことばは受け取りやすくて、残りやすい。

だけど本当に悪いことばなのかっていうと、あなたの解釈が混じってますよね。

そこが、これまでにもお伝えしてきたと思うけど、認知の歪みなのね。


意味を曲解して、自動読み取り装置の誤作動で間違った風に変換されたものが、あなたの中に残ってしまっている。

リンゴを投げてもバナナに変換されて保存されてしまう感じ。

 

私:あと、いろいろな情報をつなげてしまうんですよね。

その面談のあとに、私の先輩ですごく仕事ができる人とその上司が面談しているのが聞こえてきてしまったことがありました。

 

そのとき上司は「この部署にはリソースがないから、あなたにやってもらうしかない」という言い方をしました。

それと自分が言われた「いつまでもそんな仕事をやっていないで」を繋げると、自分は部署のリソースとして認められてない=自分は部署にとってまったく役に立ってない、となります。

自分のやったことなんて、やってる仕事なんて、価値のないものなんだな、と思ってさらに苦しくなりました。

 

C:あのね、それについてはほかの考え方ができない?

 

 

 ↓③はこちらです

www.koara2015.com

 

↓④はこちらです

www.koara2015.com

 

↓⑤はこちらです(最後です)

www.koara2015.com

 

カウンセリング10回目①(2019/2/13)

2019年2月13日、10回目のカウンセリングに行きました。

 


C:よろしくお願いします。どうですか?

 

私:はい、特に大きいことはなく過ごしています。

 

C:前回ご主人とのルール(飲み会の時に写真を撮ってくる)の話をして、あなたはちょっと気が進まないということだったけど、その話はご主人とできたかしら?

 

私:はい。したんですけど、やっぱり最初はもめたというか・・・

 

C:そうですか。いつ、どんな風にお話したの?

 

私:前回カウンセリングに来た数日後に、やっぱり言ったほうがいいと思って「ちょっとそのルールに抵抗があるから、別の方法を考えられないか。」という感じで話をしました。


そしたら、「やりたくないっていう姿勢が気に入らない。本気で関係を改善しようという気がないからそういうことを言ってるんじゃないか。」と言われて、嫌そうな反応をされました。

 

C:お二人のテンションはどんな感じ?声を荒げたりではない?

 

私:はい。

 

C;でも改善するつもりがないように思われてしまった。

それであなたはどう反応しましたか?

 

私:「改善したくないという気持ちがないってことはまったくなくて、相手の写真を撮ってくるのは、相手にも負担や嫌な気持ちを感じさせてしまうし、自分もそのことが気になりすぎてまったく楽しくない。自分は一人の時間も楽しく過ごしたいという気持ちがある。だから他の方法がないかなと思って、いまこの相談をしてる。」ということを伝えました。

そしたらだんだんと旦那も協力的になってくれて、他の案を出してくれたり、いろいろ相談ができました。

写真が大変だったら会話の一部をボイスレコーダーで撮るとか。


結果として、飲み会の写真を撮るより良い改善策が出てきたわけではなく、どうしても撮れないときはボイスレコーダーでもよいということになっただけなんですけど、建設的な話ができたような気がします。

ルールとしてはほとんど変わってないんですけど。

 

C:ご主人も少し譲歩してくれた。あなたの、改善したくないわけではないという気持ちも理解してくれた。

そういう話し合いができなのは、あなたがちゃんと自分の気持ちを話したからだと思いますよ。

前は全部おしこめちゃってたでしょ?

 

人って、結論に至るまでにいろんなことを考えますよね。

夫婦は、そのプロセスをシェアすることも大事。


ただ、ルールはあまり変わってないということだけど、そこはもう大丈夫になった?

 

私:2回くらいそのルールでやってみました。負担がゼロになったという感じはしないんですけど、あんまり抵抗を感じなくなったというか、こういうものだと思えるようになった気がします。

それに対して旦那も、誠実な姿勢を見せてくれて嬉しいというようなことを言ってくれて、それも良かったな、と思います。

 

C;それは良かったですね!

ご主人は、それがほしかったのよね。


いま、どういう気持ちがしてる?

 

私:・・・少しだけ基盤ができた感じがします。

 

C:そうね。家庭を築くってそういうものなのね。

家庭は、入籍して式を挙げたからできるとかそういうことじゃなくて、本当の意味で二人で作っていくものだから。

籍を入れたからといって、ぽーんと与えられるものじゃない。

家庭を築くには少し努力が必要なのね。

 

基盤がしっかりした・・・良い言葉ね。


そしたらこのルールの件はこのまま様子を見るということで大丈夫そうかしら?

 

私:はい、たぶん。

 

C:やってみて、やっぱりちょっとなということがあったらまた考えたほうがいいと思うんだけど、いま抵抗をあまり感じなくなったということは、ちゃんと話し合いができたことでの納得感もあるのかな。

一方的に押し付けられるルールだと抵抗を感じるけどね。

 

私:そうですね。自分の意見が、結果としてはほとんど入ってないんだけど、決定までのプロセスに挟み込めたということが私にとってはすごく大きくて、それだけですごく抵抗感が薄れて、不思議だなーと思います。

 

C:うん、とっても良い体験になりましたね!

あなたが求めてるのって、共感とか温かい話し合いだと思うの。

それが得られれば結論は案外大問題じゃなかったりするのね。


あなたは「飲み会の写真を撮って送る」ということに抵抗があったんじゃなくて、「一方的なルールの押し付け」そちらに抵抗があったように見えますね。


こうやってやってみて検証して、その時の自分の気持ちを振り返ってみると、自分が大事にしていることの発見にもつながるのね。

 

そしたら今日はこの話題は一旦うまくいったということで別の話題にします?

どんなことでもいいですよ。

 

 

↓②に続きます。

www.koara2015.com

 

↓③はこちらです

www.koara2015.com

 

↓④はこちらです

www.koara2015.com

 

↓⑤はこちらです(最後です)

www.koara2015.com

 

子供たちに教えられた「素直になること」

三連休。

子供たちは、ずっと家にいると飽きてしまいます。

 

私は小さい頃、休みの日に外に出るのが大嫌いでした。

夜、家族で外食をしようなんて話が出たら、掘りごたつにもぐってストライキをしてたくらい。

だから、うちの子供たちの外に出たい欲求があまり理解できません。

 

だけど、私と子供たちは好きなものが違う別の人間同士だし、とにかく子供たちの飽き具合がすごいので、外に出ることにしました。

 

イベントっぽいことはできないけど、保育園に必要なものを西松屋に買いに行って、ドンキホーテでお菓子を買って、私と子供達の3人でプチお菓子パーティーをすることにしました。

 

「悲しい」の処理

西松屋で必要なものを見つけ、レジに向かおうとしました。

すると娘が、あるおもちゃがどうしても欲しいと訴えてきます。

いかにも赤ちゃん向けのおままごとセットのようなもの。1000円弱。

 

確かに、おじいちゃんおばあちゃんにもらったお年玉で自分の好きなおもちゃを買おうという話はしていました。

だけど、こんなちゃちなおもちゃに使うのはもったいないと思って、

 「今度大きいおもちゃ屋さんに行って、もっといいの買おう。」

 と言いました。

 

子供にとっての良い悪いをなんで私が判断してるんだろう。

 

値段でものの良し悪しを決めようとしてる自分の、悪い意味での単純さに嫌悪感を感じながらそう声をかけます。

 

娘はだんだんと泣きそうな顔になってきます。

「どうしても欲しい。おもちゃ屋さん行かなくていい。ほかのおもちゃいらない。」

 

「あなたは一時の感情にまかせて短絡的な判断をしてるよ。あとで弟がもっと性能のいいおもちゃを買うときにあなたは何も買えずに指をくわえてることになる。そんなの嫌じゃない?」

 

7歳に向かって私の物言いはおかしいな。

一時の感情にまかせて行動するばかりで、日夜、後悔を積み重ねているのは自分じゃないか。

 

自分と自分が私の中で戦っています。

それにともなって、子供のぐずぐずはエスカレートしていきます。

 

淡々と買うものを買って外に出ると、ついに娘が泣き出しました。

「泣いたって買わないよ。泣いたら嫌な気持ちになる。どうしていつも笑って終われないの?」

 

もう娘に言ってるのか自分に言ってるのかわからない。

 

西松屋をあとにして、ドンキホーテに向かいました。約5分の道のり。

自転車を停めて、子供を下ろそうと振り向くと、娘がニコニコしていました。

びっくりしました。

 

「いつトイザらス行く?」

 

あ、この子、自分で切り替えたんだ。

 

そう思ったら感動しました。

小さいころから、一回泣き出すと止まらない子で、何を言っても収まらない。

そのことにずっと困ってきました。

だけど、5分のあいだに、娘は自分で「悲しい」という気持ちを処理できた。

 

「パパがいる時がいいね。来週かな。」

 事務的に答えてしまいました。

 

本当はここで、「偉いね!」と褒めてあげたらいいんだろう。

自分で悲しさを処理できるのはすごい。すごいね。

そう褒めてあげたい。

でも、母である私が素直になれない。

 

家に帰りました。

 

恥ずかしさに負けずに謝ること

夜。

 

お風呂に入ると、息子がシャワーを顔にかけてきたり、ふざけて叩いてきたりします。

最初は楽しい。

だけど、エスカレートするほどに飽き飽きしてきます。疲れる。

 

ついに、自分で使った石鹸で滑って転んで泣き出しました。

ママのせいだと怒り出します。

娘は逃げるように先に出て行きました。

 

「自分が悪い!いつまでも調子に乗って。

なんでもかんでも好きなことやって、全部許してもらえると思うな!」

 

険悪な雰囲気でお風呂を出ます。

 

 

寝る前。

 

布団に入って3人で川の字になりました。

だんだん子供たちもおとなしくなって、寝たかな、と思っていたとき、

 

息子が、

「ママと〇〇(娘)」

と呼びかけてきました。

 

なに?と答えると

「今日、お風呂で叩いたりしてごめんね。」

 と。

 

びっくりしました。

 

さっきのことをひとりで考えて、

自発的に悪かったと思って謝ったのか、この子は。

 

「大丈夫だよ。自分で謝れて偉かったね。」

 

「恥ずかしかったけど、頑張って謝れた。」

 

そう言う息子に感動しました。

 

娘にも、

「今日はおもちゃ我慢して、自分で気持ちを切り替えられて偉かったね。」

そう声をかけることができました。

 

子供に教えられた「素直になること」 

子供たちは私より何倍も素直です。

素直に謝ったり、感謝したり、褒めることができない私より全然しっかりしています。

 

子供の育て方に自信を持てないまま何年も過ごしてきました。

でも、子供たちのおかげで、少し自分のことを認められた気がします。

 

私はまだ素直にありがとうを言えません。

「わたしの子供に生まれてきてくれてありがとう。」

 

本当はそう思っています。

子供達の心の成長が嬉しいです。

 

子供に対しても、家族や他の人に対しても、ちゃんと気持ちを言葉にして伝えられるようになりたいと思いました。

母親として子供を育てることが嫌なんじゃない

子供が7歳と5歳になり、前より手がかからなくなりました。

なのに、なんでわたしはいまだに母親という立場から逃げ出したくなるんだろうと考えたとき、その理由の一つは、ほかの母親とのコミュニケーションを強制的に取らされているからだと思います。

 

小学校にはPTAという組織があります。

学童にも父母会というものがあります。

保育園にも、同じクラスのママたちとのグループラインがあります。

 

子供がいなくて、独り身だったら、自分の意思で参加不参加を決められました。

私がコミュニティへの参加を拒否したことで、困ることや回ってこない情報があったとしても、その被害を被るのは自分だけでした。

 

だけど、子供が関係してくると、参加しないことで被害を被るのが自分だけじゃなくなります。

子供たちがみんな集まる会にうちの子だけ参加できないのはかわいそう。

私が情報を得られなかったばっかりに、子供が忘れ物をしたりして先生に怒られたらかわいそう。

そう思うと、私の意思だけでコミュニティへの参加を拒否することができなくなります。

 

だけどそれが、強制的に参加させられているように感じるのです。

逃げ場を断たれたように思い、怒りを感じます。

 

実際のところ、参加を拒否できないことはありません。

情報が得られないことや、子供のコミュニティの幅を狭めること、ほかの母親からなにか思われること。

それらを受け入れるのであれば、拒否することはできます。

 

そうやってコミュニケーションを取らないことを徹底してる人もいると思うから、決して強制的に参加させられているわけじゃないんです。

でも、私はそれらのデメリットを受け入れることができなかったので、しぶしぶ参加しています。

だけど、いままでやりたくないことから徹底的に逃げてきた人生だったので、「仕方なくやる」という経験がはじめてでした。

子供を守るために、「仕方なくやる」

29歳にしてはじめて経験したがゆえに耐性がなく、強い拒否反応が出ているんだと思います。

 

 

「仕方なくやる」と、関わりたくない人との切れない繋がりも出てきます。

いままでだったら、関わりたくない人とは速攻で関係を断つことができたけど、それもできなくなりました。

 

PTA関連で繋がりのあるママさんが、「下の子がいるから役員できません」は、役員を辞退する理由にならない、と怒っていました。

小学校の係には「幼いお子さんは連れてこないでください」と明記されているものまであります。

 

だけど、みんながみんな小学校のため、子供たちのために積極的になにかしようという気持ちをもっているなんてことは絶対にないと思います。

みんながみんな、好きなときに子供を預けられる人が近くにいるとも限りません。

顔には出さずとも生活がいっぱいいっぱいな人だっているでしょう。

 

そういう人がいる可能性を考えたり、他人の状況を理解する気もさらさらなく、「役員やりたくない」っていうひとことで、その人のことをボロクソに言うことには納得がいきませんでした。

 

だけど、そういう考え方の合わない人とも、どうにか関係を維持していかないといけなのです。

 

 

いろんな技術も世の中も進んでいて、家族のあり方も多様化しているいま、小学校はいつまでステレオタイプな慣習にこだわっているんだろう。

クラウドやグループウェアを使って、そういう非効率的なシステムを変えられたらな、と思うけど、そこまでする推進力も根気もなく、ヤダヤダ言いながらダラダラ流されている自分がときどき本当に嫌になります。

 

 

単純に「母親として子供を育てること」が嫌な時期を過ぎて、「母親としてコミュニティを維持しないといけないこと」にストレスを感じているのがいまです。

 

今日がだめな一日になった3つの原因を書きます

今日はダメな日でした。

仕事が全く手につかず、ぼーっと過ごした一日。

その原因は3つあります。

 

友達のnote

高校時代にバンドつながりで仲良くなった人がいます。

その人のブログを数年前、たまたま何かで見つけました。

それから、たまに、ほんとに何も考えたくない時に開いたりしていました。

書いてることは、詩だったり、散文みたいなものだったり、元カノの話だったり。

 

彼は昔から病弱で病んでる雰囲気があったんだけど、

仲良かった当時は、わたしの性格のほうが数百倍ひどかったです。

彼や、その周辺の友達を、自殺未遂やら試し行為の対象にして巻き込み、数え切れないくらい迷惑をかけていました。

 

わたしは、自己主張をあまりしない彼のことをどこかで見下していました。

勝手にイライラして、人格否定のような暴言を吐いたりしていました。

 

いまは個人的な連絡先も知らないし、その人と一緒に仲良くしてたみんなのことも、いまどこでどうなってるかまったく知りません。

 

彼はブログとTwitterを連携していて、Twitterではかなりのフォロワーがいました。

そして最近noteを始めたらしく、詩が売れたとブログに書いていました。

 

わたしはそれをずるいと思いました。

ブログの情報だけど、彼は統合失調症だかなんだかの病気で、仕事をせずに音楽をやって、詩を書いて、日々暮らしてるらしいです。

 

統合失調症になったのはあいつ(私)のせいだ、みたいなことも書いてありました。

彼は彼で、わたしのことを嫌な思い出として記憶してるのでしょう。

 

わたしは彼のことを見下していました。

明確な理由は思い出せないけど、

彼の容姿なのか、病気じゃないのに病気のふりをする彼の姿勢に対してなのか、なんらかに不満を持っていました。

 

それなのにいま、彼のほうがわたしより上にいます。

仕事もしてないのに会いに来てくれる友達がいて、ライブができて、書いたものが評価されています。

 

当時自分より下だと思っていた人間に完全に負けてる。

それがどうしても悔しかったです。

 

色恋で勝ち上がる女の子

二つ目。

いつかの会社に、上司と関係を持って上に上がろうとする女の子がいました。

 

彼女は自分にとても自信があるようで、自分は見た目で世の中渡っていけると思っている雰囲気がありました。

上司の他にも、妻子持ちの社員や色々手を出していたみたいで、社内だから噂が回って、結局社長にまで話が伝わり、辞職に追い込まれる形になりました。

 

基本的に退職させるのは無理だから、その上司が責任を取って転職先を斡旋したらしいんだけど、それが超大手企業の花形部署でした。

その転職先をこの前知って、上手くやる人はどこまででも上手くやるし、本人の容姿や性格やらも相まって優れてるから、それだけで世の中渡っていける人は本当にいるんだなと思ったら、ますます自分のダメさに打ちひしがれました。

 

わたしの見た目で彼女と同じような手法で勝ち上がることは無理だし、容姿が優れているのは彼女の特権であって、自分にないものを持っている彼女が羨ましいと心底思いました。

 

転職なんかできない

三つ目。

今の会社でできることも増えず、使えないお荷物扱いされ続けるのなら転職しようと思って転職サイトを開きました。

 

わたしの目にとまるのは誰でも名前を知ってる有名企業ばかり。

今の仕事とも関連してて、ちょっと興味があった会社の口コミを見てみました。

 

  • 常に記事にする話題を探す向上心があって仕事に対するモチベーションが異常に高い社員が多い。
  • バイリンガル以上の社員が多くいる。
  • 有名コンサル、大企業からの転職者多数。

 

口コミを見ただけで無理でした。

みんな喋れるのが普通になってきてる英語すら私は喋れない。

唯一向上心だけはあったけど、今の部署に異動してからだいぶなくなってしまった。

ここに転職できたところでまた劣等感に苦しむのは目に見えている。

 

販売の仕事をしていたときは、誰でもできるような簡単な仕事だったのでやりがいを感じることがあまりありませんでした。

さらにパートという立場だったので、仕事に対するフィードバックもなければランクアップもありません。

 

それが物足りなくて転職しました。

 

事務の仕事も簡単に終わるものが多く、当時の上司が、仕事の幅を大きく広げてくれました。

その人の元で働いた1年間で、私は急成長できた実感があります。

 

だけど上司が変わってそれもなくなりました。

色々改善を試みているけど、どれも上手くいきません。

仕事に対するモチベーションは下がるばっかりです。

 

いま、この不満を解消させるために転職を希望したとしても、スキルのない私は自分の希望するような会社には入れないでしょう。

 

そう思うと転職もできず、このまま低いモチベーションで毎日のルーティン業務をこなすだけの日々を過ごして30歳を迎えるのかと思うと気が遠のきます。

 

変わりたい

こうやって毎日不満を抱えながら人生を送って、歳を重ねてもずっと後悔と嫉妬にまみれた私でいるのが嫌です。

 

どうやったら生き方のレールを変えられるんだろう。

環境を変えるといいなんてよく言うけど、それは親の支援とか、経済的な余裕があるとか、生活レベルを維持できる背景があるからじゃないでしょうか。

 

わたしにはそれもありません。

誰かがもっと良い道へ引っ張ってくれたら楽なのに、と他力本願な気持ちにもなります。

自分の力で、今までの過去を断ち切って新しい自分に生まれ変わるなんて、どうやったらできるんだろう。

 

もっと時間に余裕があればいい?

ひとりの時間を持てればいい?

もっと本を読んで新しい価値観を学ぶべき?

なんかわかりやすい答えが欲しいです。

 

 

今日は朝から大雨の中自転車を漕いで子供達を送り、歯医者で歯列矯正のワイヤー交換をして帰りました。

全身がびしょびしょになり、家に着いたら身体中から水が滴り、寒くて冷たくて手足は痺れています。

 

在宅勤務なのをいいことに、ただただ呆然として過ごしました。

いろんな人の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消え、後に残るのは嫉妬と羨望と落胆のみ。

 

明日は出社するからこんなことしてられないなーと思いながらひたすらぼーっとする一日でした。

こんなだめな一日について振り返ってみました。

 

完璧主義は捨てた方がいい

7歳の小学1年生を育てていると、小さなことが気になります。

箸の持ち方や漢字の書き順、数字の形。

 

私は小さい頃、ノートの4分割されたマス目を見ると嬉しくて興奮するような性格だったので、お手本にならってお手本通りに漢字を書くことを純粋に楽しんでいました。

何ページも何ページも、ただただ「あ」を書き続けることが普通だと思ってたし、お手本に近い形になればなるほど喜びが増してやめられなくなるような子供でした。

 

だけど娘は、左の偏と右のつくりがバラバラになっていてもまったく気にしない性格。

漢字の書き順なんて、彼女にとってはあってないようなもの。

間違えたところを消しゴムで消しきれていなくても躊躇せずその上に文字を書きます。

 

これだけ性格が違うと、難しいんです。

 

箸の持ち方も、漢字の書き順も、数字の形も、「綺麗な方がいい」

それはそうに決まってます。

 

「できないよりは出来た方がいい」

 

だけど、「できないよりは出来た方がいい」が積み重なると、「完璧主義」になります。

娘に対して、私は諦め諦めやってるつもりだけど、娘からしたら、積み重なってるものがあるかもしれません。

 

 

だけど、基礎がちゃんとしてるからこそ、できることが増えるのも確かです。

可能性が広がります。

 

今の会社に入ってやっぱり勉強はできたほうがいいと思う気持ちが強くなりました。

祖母が教育熱心だったのも、孫たちの将来を思ってのことだったのかと思います。

持ってる武器が多いことは、自信になります。

そして、自信がある人は強いです。

 

いわゆる「いい大学」に入れなかった私が、もしいま自分の思う通りの人生を送れていたとしたら、その考えも違ったかもしれません。

学歴がなくてもこんなにしあわせに楽しく生きていけるんだという実感が持てていれば、子供に勉強することを求めなかったのかもしれません。

 

だけどこの考え方が負担になる子供もいると思います。

娘を見てると、字が下手でも、日記の文章が支離滅裂でも「ある程度」のところで教えるのを終わりにしたほうがいいのかもしれないとも思います。

本人がやりたくないこと=勉強を強制することが、娘にとって良い方向にいかない可能性なんて多分にあるのです。

 

 

私は自分の後悔を娘に押し付けているのだろうか?

別に「高学歴になれ」とは言っていません。

でも、「自分が高学歴だったらよかった」と思う自分の気持ちは確かにあって、その気持ちがもしかしたら娘に向いてしまってるのかもしれません。

 

 

「できないよりは出来たほうがいい」

 

この考え方は完璧主義の押し付けなんでしょうか?

 

自分の後悔を紐解いてみると、「勉強ができないことで好きなことができなかったこと」が後悔の原因になっています。

獣医になりたかったのに数学ができなくて諦めたことです。

この時から「勉強ができないと夢を諦めなきゃいけなくなる」という思い込みがはじまっているように思います。

 

子供の将来が本人の思い通りに進むようにサポートすることと、自分の後悔に対する反省とがごっちゃになってしまってるのかもしれません。

 

彼女の自由を奪いたくないけど、自由にさせすぎて、娘にとってあとあと後悔するような大きな欠陥を残してしまうことも怖い。

 

私がいちばん苦手な「グレーのまま進む」ことが、親として、娘にとって必要なことだと思うんだけど、ちょうどいいところの判断が難しくて、毎日悩んでいます。

 

勉強ができなかったことで後悔してるのも事実だけど、完璧主義を持って生きることでいまが苦しいのも事実。

両方とも自分の経験からきている教訓だけど、どっちが大変なのかは明らかです。

 

娘のためにも、自分のためにも、完璧主義はやめないといけないなーと思っています。